茂手木 潔子 MOTEGI Kiyoko
上越教育大学 Joetsu University of Education


おもちゃが奏でる日本の音-平成玩具考-

へるす出版『小児看護』1994.8月号~毎月1回連載
第2回 風から聞こえる虫の声

●蝉の鳴かないヨーロッパ
 数年前の夏の終りのことでした。音楽音響の国際会議が東京で初めて開かれ、私も日本の伝統的なおもちゃの音の特徴について発表しました。その時に、アメリカから来日したインド音楽研究家のトラソフさんと話す機会があり、彼が東京を離れて地方を見たいということで、日本海に近い私の大学を訪れることになりました。
 直江津駅に下り立ったトラソフさんを、さっそく日本海へと案内する道すがら、彼がこんなことを言いました。「東京の新宿のホテルに泊まっていたけれど、毎晩、一晩中変な音がテープから流れている。なぜあんな音を流すのだろう」と言うのです。「どんな音?」と尋ねると、「唸りのような音が、時どき止まってはまた鳴り出すんだ。その止まり方も一定間隔で変だ(彼はここではストレンジという言葉を使って表現しました)」と答えました。私はこの時、彼が何の音のことを言っているのかすぐ分かりました。と言うのも、以前ニューヨークから知人の紹介で一人の少年が来た時に、同じようなことがあったからです。私は言いました。「何の音かわかった!その音はテープじゃないの。本当の蝉の鳴き声よ。」そしてミンミン蝉の鳴き声を真似して聞かせ、「この音でしょう?」と尋ねると、「その通り。でも本当に蝉の鳴き声?高層ビルディングの街で蝉が鳴くの?」と言ってトラソフさんはしばらく信じませんでした。少年が来日したのも夏の終り。その時も東京中がミンミン蝉の鳴き声で溢れていました。少年も「あれは何の音?」と尋ね、「蝉(cicada)の声」と答えると「それ何のこと?」。彼は「シカーダ」という蝉を表わす単語すら知りませんでした。アメリカ人が蝉を知らないなんて。その時はずいぶん驚きました。そしてその翌夏、渡欧した機会に、ヨーロッパの蝉の声を録音して来ようと勇んで出掛けました。
 ところが……です。ドイツ・オーストリア・オランダの木立ちを歩いても山間の町を訪ねても、「ミン」の一声もしません。けっきょく7月から8月までの約一か月の間、私は蝉の声をまったく聞くことができなかったのです。もちろんヨーロッパにも蝉はいるのでしょう。でも湿度の高い夏をもつ国の蝉とはどうも鳴き方が違うようです。私の耳には、蝉の鳴き声として届いて来ませんでした。
 日本人の蝉への思い入れは深いようです。平安時代から伝わる横笛の名器には、竹の節に枝を少し残したまま切り取って、ちょうど蝉が木に止まっているような形に作った笛もありました。この笛のことを「蝉折(せみおれ)」と呼びます。

   静かさや 岩にしみ入る蝉の声  (芭蕉)

 私たちにとって、身近なこの名句も、日本人の感性だから生まれた俳句かもしれません。

●竹筒から聞こえる蝉の声
 それにしても、自然の中に日本人が聞き出した鳥や虫の声には実に多くの種類があります。日本の文学作品のさまざまな分野で、過去から現在までその泣き声は言葉の流れに色合いや変化を与えてきました。そして玩具の中にも、鳥虫の声を出そうと工夫されたものがたくさんあります。
 特に蝉に限って例をあげてみましょう。竹筒を吹いて「ミンミン蝉」の鳴き声を出すおもちゃがあります(図A)。これは歌舞伎の中でも擬音として使われています。ミンミン蝉の笛は、細い管の中にリードが入っていて吹き口になり、太い方の管の両端を両掌で押さえて、片方の掌を時どき離しながら吹きますと、ミーン、ミーンと声が出てきます。
 また、竹筒の両端に油紙を張り、紙の一端の真ん中から丈夫な紐を通して棒に縛りつけてぐるぐる回転し、唸り音を出す蝉のおもちゃもあります(図B)。このおもちゃは、日本だけでなく、アジアの一部や南米などでも見ることができます。棒の先端に松やにがたくさんついていて、紐はちょうどこの松やにのところに縛られていますので、棒を持って回転したときには、松やにと紐が摩擦されて音が出ます。そして、その音が竹筒の共鳴胴に響く仕組みになっているのです。
 楽器の分類では、これは弦楽器の一種と考えられています。日本の蝉のおもちゃは、竹筒の外径2.5cm、円柱の長さ3cmと、とても小さく、筒の外側には蝉の羽が2枚とプラスチックの目がついていて「ミンミン蝉」の名前で売られています。そしてここから出てくる音の色はミンミン蝉が少し嗄れたような鳴き声でした。

●蛙と蝉は声が親戚?
 蛙の声は、赤貝の背中を擦り合わせて出すことが多いのですが(図C)、蝉と同じ発音方法で蛙の鳴き声を出すおもちゃもあります(図D)。蝉よりも形が大きく、竹筒の外径3.5cm、円柱の長さ4cmで紐はプラスチック製で釣り糸のようです。でも蛙の場合は紐を結び付ける棒の部分に松やにがついていません。プラスチックの紐と太めの筒のせいでしょうか、蛙のおもちゃは、田植えの頃に一斉に鳴き騒ぐ蛙のようにゲコゲコと大きな音を出します。このおもちゃには松やにが塗られていないので、紐が棒から外れないように棒の一番上に蛙が口を開けた形が取り付けられ、思わず楽しくなりました。蝉も蛙も、きっとアジアのどこかの国からやって来たのだと思いますが、同じ発音構造なのに、紐の種類を替えて音色を変えるところが、実に日本的な工夫と思います。日本人の楽器の音色へのこだわりは、世界に類を見ないほど繊細なところがありますから。

 ボリビアから友人が探してきてくれた同じ形のおもちゃの竹筒は、外径が6cm、円柱の長さが2.7cmと、日本の蝉に比べるとずいぶん大型です(図E)。でもこのおもちゃには蝉や蛙を連想できるような手掛かりがなく、胴体全体の模様は抽象的で、虫の鳴き声を表わそうとしたものかどうかわかりません。でも、このおもちゃを回して出てくる音は日本の蛙よりもっと大声の蛙の声でしたから、もしかしたらボリビアの蛙の声は日本よりもっとやかましいのかもしれません。最近の日本のおもちゃには、木の歯車と金属片とがぶつかりあってギリギリという音を出すおもちゃがあり、ここにも装飾で蝉や蛙の形がついています(図F、G)。
蝉と蛙、異なった生き物の声が、同じ形のおもちゃから出てくるなんて、本当に不思議です。


●国によって異なる蛙の声
 インドネシアのバリ島には「ケチャ」というユニークな声の音楽があります。大勢の男性による複雑な合唱ですが、「ケチャ」の名前は歌い方がそう聞こえるのでついた名前だと言われています。アジアに古くから伝わる大叙情詩「ラーマーヤナ物語」の音楽劇がバリ島にも伝承されていますが、ケチャは魔王にさらわれたシータ姫を救おうと猿の大軍団が出陣する時の合唱に取り入れられています。
 民族音楽学者の故小泉文夫氏は、生前にこんなことを言っていました。「ケチャはバリ島の人が蛙の鳴き声を聞いて作った音楽なんですよ」と。ケチャは歌い手一人一人がチャという言葉をそれぞれのリズムで発音する不思議な声の音楽です。蛙がこんなにいろいろなリズムを同時に発音できるのかしら?というのが、当時小泉先生の言葉を聞いた時の私の感想でした。
 その後、ジャワ音楽研究家の田村史(たむらふみ)さんが、テープでジャワの蛙の声を聞かせてくれたことがありました。その音色はまるでガムラン音楽のようです。このテープから流れてくる蛙の声は、それぞれの蛙が異なったリズムを保って鳴くので、まるでリズムアンサンブルのように聞こえたのです。インドネシア音楽の特徴は、それぞれの楽器が異なるリズムを演奏し、そのさまざまなリズムが集合して複雑な音楽ができ上がりますので、蛙の合唱法とまったく共通していたのです。
 日本の蛙の中には、牛に似た鳴き方をする「牛蛙」もいます。この声は、お坊さんが声を引き伸ばして経を唱える声明(しょうみょう)のようです。田んぼの中で鳴く蛙の合唱は読経のようです。蛙の声は土地によって違うのです。「蛙の歌が、聞こえてくるよ、クワッ、クワッ、クワッ、クワッ・・・・・・」こんな単純なリズムの蛙の歌は、インドネシアではけっして生まれてこないでしょう。そういえば、お坊さんの声のことを昔よく「蝉声(せみごえ)」と言いました。蝉と蛙・・・・・・この間に共通の音色があるのは確かなようです。  私たちは生まれた時から、自然の中で生息する生き物たちの声を聞きながら育っています。そして、身近に聞き続けてきた音色は、その土地に住む、その民族の音の好みに反映されてきました。
 蝉の声、蛙の声、どちらも日本人が身近に聞き慣れ親しんだ声であり、この声を再現するためにいろいろな音の出る道具を作っているのです。  日本人にとって、蛙や蝉の声は季節の移り変わりを知らせる音の記号なのです。

(本連載の図版資料は、イラストレーター遠藤恵美子さんのご協力を得ています。)