茂手木 潔子 MOTEGI
Kiyoko
上越教育大学 Joetsu
University of Education
第13回 鬼灯市にて
四万六千日
各地の寺社で開かれる縁日には、一か月30日がそれぞれ神や仏に対応させられて作られた日と、その日にお参りすれば、百倍も千倍も御利益があるとされる月一回の功徳日の縁日のなかに7月10日の縁日があります。この日は、4万6千日お参りしたことにも相当するとされ、7月9日から10日にかけて開かれる台東区の浅草寺「ほおずき市」が、この日に当たります。4万6千日にほおずきを鵜呑みすれば大人は癌の根が切れ、子どもは虫の音が切れる効能があると信じられていたためにこのほおずき市が盛んになったといわれています。縁日自体は、すでに平安時代からあったとされ、このような功徳日の縁日は、江戸時代になって、その数を大きく増やしたそうです。
雷門から仲店通りを突き抜けて浅草寺の境内に入ると、本堂に向かう両側の空間に、ほおずきの店が並びます。赤い実に、まだ緑の実も混じったほおずきの鉢植えや枝を並べた出店には、月曜日というのに、さまざまな年齢層の人々や、また、海外からの観光客らしい参詣客が大勢「ほおずき」を求めて訪れていました。
ほおずき(図1)は、ナス科の多年草で、米を煮た汁とか飲み物の意味をもつ「」の字を伴って、「酸 」とか、その形や色のイメージをもつ「鬼灯」と書かれています。根は咳止めに効くそうで、このほおずきの皮をむいて実を取りだし(図2)、実のへたの部分に小さな孔を開けて、中から種を取り出して口の中で鳴らすと、グイッ、グイッという変な音が出ます。この遊びは、子ども時代の音だし遊びのなかで、けっこう重要な位置を占めていました。音そのものはけっして良い音とは思わないのですが、音が出るまでの苦労が大変なため、音が出た時は本当に嬉しいものです。
実を取り出すときのコツは、まず、ほおずきの実を少しずつ揉んで中の種を柔らかくしてから、へたに中身を出すための小さな孔からまず中身を少しだけ引っ張りだします。この第一段階をとても慎重にしないと、袋がすぐ破けてしまいます。三分の一程度中身が出てきたらもう完成間近。やっとほっとする一時です。
楽器作りの長いプロセス
ほおずきの音は単純な音ですが、音が出るまでを整えるのに時間がかかるところが、日本の楽器の演奏までの時間のかかりかたとよく似ています。たとえば、2枚の革を30分近く火にあぶってから胴に紐で締め上げて組み立てる楽器「大鼓」、リードを20分程暖めるとリードが振動しやすくなり、響きが良くなる「笙」、糸を張ってから30分以上しないと、張力が安定しないために音が狂いやすい三味線など。
日本の楽器の音楽は、楽器の準備をするところからすでに音楽の行為が始まっているものが多いのです。でもここでわざわざ日本の楽器と限定しなくても、欧米にも、かつて自分で組み立ててから音を出す楽器や、音を出すまで熱したり、湿気を与えたりするのに時間のかかる楽器はあったのでしょう。アジア諸国の楽器にはきっとこのプロセスに時間のかかる楽器がまだ多いはずです。近代になって、学校教育で使われている洋楽器のほとんどが、この過程を失い、音を出すところから始まることは、音楽の在り方に大きな変化をもたらしました。もともと自分たちで作って遊んだおもちゃの世界から、すでに出来たものを買ってきて遊ぶことへの変化に似ています。
日本音楽の本質の理解のためには、このほおずき遊びのような楽器作りのプロセスを伴ったあそびをもう一度見直すことは重要です。創意と工夫、発想の豊かさ、創造力……近年の教育で盛んに言われている標語のほとんどは、伝統的な遊びを取り入れることで目標を達成することができるのではないかと思うのです。
海ほおずき
境内の奥で、このところ探していた海ほおずきの出店を見つけました。屋台には「うみほおずき」と書かれ、淡黄色をしたほおずきの固まり(図3)と、赤く着色されたほおずきが売られていました。昔は梅酢につけて赤く染めたのですが、出店の女性によると、今は食紅で染めているのだそうです。
海ほおずきは、巻き貝が海岸の岩や流木にくっつけた卵 のことで、束になっている一つ一つの に小さな孔を開け、中の卵を取り出して空洞にしたものを、一つずつ切り離して(図4)口に含んで音を出します。鬼灯と同じように、グィーと鳴らしますが、私の記憶では、昔は乾燥したものを何個も一緒に台紙のある袋に入れて売っていたように思います。
「一つ幾らですか?」と尋ねると、「300円」と答えが返ってきました。この小さな一つが300円! しかし、滅多にお目にかかれなくなった海ほおずきですから、できればこの束になったものが欲しいと思い、「これ全部で幾らですか?」と再び聞いてみました。束で買う客などいないだろうからきっと割引きしてくれるだろうと期待していたのですが、50代を過ぎた店の女性は束の一枚一枚を数え始めました。そして「3500円だけど、まあ3000円でいいや」と言いました。何て高いのでしょう。これはもう独占企業に外なりません。昔の海ほおずきは九州や加賀能登から江戸に入ってきたそうですが、少なくとも上越近隣の海辺ではすでに名前すら忘れられています。めったに買えない弱みもあり、3000円を出して頑張って買いました。そばのカゴにもう一つの何やら海草みたいな草がありました。これが「なぎなたほおずき」でした、塩につけて一生懸命育てているんだけど、なかなか大きくならないと、店の女主人はぼやいていました。このほおずきも売って欲しいと頼みましたが、これは駄目と断れました。帰り道、境内の右側の通りを覗くと、もう一軒の海ほおずき屋がありました。念のためにもう一度なぎなたほおずきの塊(図5)を売ってくれないか聞きますと、何のことなく「いいよ」の返事。ここでもやっぱり一枚一枚がしっかりと数えられて「大負けに負けて1500円」也。
「ほおずき」の言葉は、「英華物語」の「初花」の段や「源氏物語」の「野分」の段にすでに登場していますので、9世紀末にまで遡る遊びといえます。また、海ほおずきを取る巻貝「長ニシ」の肉は、「嬉遊笑覧」によれば子どもの夜泣きの薬だったそうですから、鬼灯や海ほおずきを鳴らすことが、子どもの虫封じと関わりがあり、ほおずきが魔除け・厄除けに類似した目的を担っていたことがわかります。
この日はなんと鬼灯と海ほおずきに5000円を注ぎ込んだ結果になりました。けっして高くない連載の原稿怜料が入る前に、大抵は原稿料分を使い果たしている私です。でも、とても幸せな一日でした。
江戸風鈴
この市には、ほおずきを売る店に混じって、江戸風鈴の店も出ています。江戸風鈴で有名な江戸川区の篠原商店で目鼻立ちのくっきりした若い女性たちが、浴衣を小粋に着こなして風鈴を売っている姿は、18世紀の江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚を引き起こします。
ガラスの風鈴(図6)は、明治時代に、ガラス製法を身に付けた藤田又兵衛が、寺の屋根に揺れる風鐸にヒントを得て金魚鉢を逆さにして舌を付けて売り出したのが始めてといわれます。
ガラスの粉を材料にして「それを800〜1200度の炉で熱して溶かす。炉の燃料はコークスである。ガラスの管の先に融解して真っ赤になったのをちょっとつけて息を吹き込む。ころを見て針金で穴をあけ再び炉の中へ。ひきあげてまた吹く。プーッとふくらんだ胴の張りを見て吹きやめ、もう冷えているから、管と本体をヤットコで切り離す。あとは穴から糸を通し、細いガラスの棒の舌をつけるだけである。」と那谷敏郎によるとその工程が細かく記されています(注1)
藤田氏はその後、妻方の姓、篠原を継ぎ、現在の篠原商店になりました。
江戸時代当時の風鈴は、もっぱら金属製だったと考えられますが、『嬉遊笑覧』に書かれた風鈴の説明では、風鈴が風を知るためのもので、音を弄ぶものではないと記され、その形も、「薄き板金」を花の形に小さく刻んで糸の下につけて吊るしたとされています。風鈴の音色については、高僧が娯楽の風の響きや波の音を風鈴の音色に重ねて愛でたことが書かれています。ここにも過去の人々の自然音へのこだわりがみてとれます。
(注1) 那谷敏郎「伝統と秘技の世界」那谷・柴田南雄著『日本の音をつくる』(朝日新聞社刊、昭和52年)