茂手木 潔子 MOTEGI Kiyoko
上越教育大学 Joetsu University of Education


ふるさと散歩「越後に暮らして」

BSNラジオ連載 1994.7〜1995.9

7月5日 町おこし

 以前の竹下内閣の「ふるさと創生」のキャッチフレーズ以来でしょうか、全国的に村起こしや町起こしの動きが盛んになっています。新潟県もその例に漏れません。これらの動きの中には、音楽文化を盛んにしようという動きがよく入っています。その場合に、どんな音楽を盛んにしようとしているのかと言いますと、合唱だったり、吹奏楽だったり、管弦楽だったりと、言ってみれば西洋音楽を盛んにしようという動きの多いのが現実です。
 私の専門研究分野は日本の伝統音楽ですが、この分野には民謡も含まれています。新潟県の各地には実に数多くの民謡や芸能が伝えられていますし、それらの芸能の中には音楽的にも素晴らしい物がいくつもあります。でもこれらの土地土地の歌や芸能を取り入れた町起こしは余りなされていませんでした。音楽に溢れた町というイメージは、西洋音楽のイメージらしく地元の芸能はなかなか入る余地がないようです。洋楽中心の音楽教育が全国的に行き届いた結果、音楽というと、限られた時代の西洋クラシックを指すようになってしまったみたいです。
 最近、南米から来日した民族楽器でバロック音楽を演奏する楽団の演奏会に招かれて聞く機会を得ました。国がバックアップするグループとのことでしたが、その土地の楽器で演奏された曲目のほとんどは、欧米の作曲家によるクラシック音楽です。観客の拍手は非常に大きかったのですが、楽譜を見ながら、指揮者に合わせて一生懸命演奏する人々を見ていると、彼らがもともと持っていた民族の音楽のエネルギーはどこかに消えてしまって、お行儀の良い音楽になっていることが見て取れます。そして、この演奏会を聞きながら、日本がかつて歩んで来た道と同じ道を歩もうとしている南米の国の音楽政策に寂しい思いがしてしまいました。その土地の音楽や楽器が生き生きと自らの音楽を表現して行けるような町起こしを是非行って欲しいものです。

7月12日 音のない町づくりにむけて

 10年ほど前の真冬のこと、北ドイツのハノーヴァーという町で、留学中の友人と待ち合わせをしました。ところが、どうも場所を間違えたらしく、1時間待っても友人に会えないのです。初めのうちは不安でしたが、旅行中のせいか、だんだん時間のことも気にならなくなりました。私のいた所は、市の中心にある広場の一隅(いっかく)で、日曜日とあって大勢の人々が町に出ていました。目の前には、銀座4丁目のような大きな交差点があり、行き交う車の間を市電が走っています。通り過ぎる車やカラフルな冬服に身を包んだ人々を物珍しく見ているうちに、不思議な気持ちになりました。電車や車、多くの人々、そして様々なお店が立ち並ぶ都会なのに、なぜこんなに静かなんだろう……と思ったのです。路面電車は3〜4台も通り過ぎたのに、リンリンという小さく素朴な音しか立てず、車のクラクションもほとんど聞きません。このリンリンという小さな音で、車が止まったり、よけたりするのです。商店街が立ち並んでいるのに、BGM音楽のテープも聞こえません。この静けさは日本では経験できないことでした。
 近くにカウンター式のサンドイッチの店があり、女主人らしい人が、お客たちの注文を慌ただしく聞いていました。その店からモーツァルトのピアノソナタが流れてきました。そういえば、ドイツで入った喫茶店のほとんどが、BGMを流していませんでした。
 今、日本のいたるところで音楽があふれ過ぎています。喫茶店や美容院で絶え間なく流れる音楽、ドライブでは目前の美しい景色よりもカーステレオのポップスに興じ、学校はせっかくの休憩時間に音楽を流すのです。全国の幼稚園の中には、児童の一挙一動にも音楽を使う所が多いとか。せめて風光明媚な越後の国ぐらいは、余計な音楽を追放して欲しいものだと、私はここ越後に暮らしながら音のない町づくりを提唱したいと考えています。

7月19日 瞽女さんとの出会い

 ずいぶん前、瞽女さんにお会いしたくて高田を訪れたことがありました。高田瞽女、杉本キクイさんの演奏を国立劇場でお聞きし、強く心を魅(ひ)かれたからです。キクイさんの三味線の音楽性は当時の国立劇場スタッフの中で評判になっていました。音の高さの安定感、語りの合間に弾く三味線の演奏技術の確実さ、そして、表現力に富んだ声の説得力は素晴らしいものでした。
 高田のご自宅で、キクイさん、シズさん、難波(なんば)コトミさんの3人にお目にかかれましたが、キクイさんはその時、ご自宅の雨漏りにとても困っていました。そして、ご自身がこれまでいろいろな場所で演奏してきたにも関わらず、とても不自由な生活であること、これまで様々な人達の要望に応えて来たが、この頃は自分たちが利用されてきたのではないかとも考えるようになったことなど、約2時間ほど切々と私に語られました。キクイさんの三味線の素晴らしさだけを考え、彼女たちの実生活のご苦労のことなど何も考えずに会いに来た私にとってこの言葉は非常にショックでした。そして、こうして訪ねて来た私自身も単に自分の好奇心を満たすために訪ねて来たにすぎないとも感じたのです。
 数年後、キクイさんは亡くなりました。
 その音楽を本当に理解すると言うことは、音楽の生み出される背景にある文化と音楽を演奏する人々を理解してこそ始まるのだということをこの時強く感じました。
 上越で暮らし始めてから、高田や直江津には、瞽女唄の音楽性に特別な関心を抱いている人がとても少ないことに驚きました。人々にとって瞽女唄はちょうど1年の生活の中で通り過ぎる行事のようなものでした。でもこれが地元なのかも知れません。私自身、自分の出身県のことはほとんど何も知らずにいるのですから。でも、キクイさんとの出会いで得た教訓はいつまでも私の心に残り続けているのです。

7月26日 文化ホールの催し物

 このところ民間レヴェルでの積極的な文化振興活動のおかげで、世界各地の芸能や音楽が日本の各地で紹介されるようになりました。でも、地方の市や町が管轄する文化ホールのプログラムは、今もって西洋の限られた時代の有名な作品だけで占められる傾向にあります。最近、長いヨーロッパ生活から帰国した友人の声楽家が、「茂手木さん、日本では20世紀なのにまだシューベルトよ。信じられる?」と嘆いていましたっけ。
 クラシック音楽の場合、市町村にあるホールの催し物のほとんどは、中央の音楽企画会社が海外から招いた演奏家の地方巡業の流れに乗ることで企画されてきました。ですからあてがわれた曲目の中から選ぶ以外に、希望を言うことはできません。中央のエージェントは、とにかく赤字を出さないようにしますから、お客さんが入るように既に評価の定まった曲目を並べることになります。だからいつも同じような曲目が並ぶのです。当の招かれた演奏家たちは、「自分たちが生きている時代の作品も演奏したいけれど日本のエージェントは古い曲しか頼まない」と嘆いているとか。
 このように、“既に企画された内容を借りて上演するだけ”といった現状は、市や町のスタッフに、芸術関係の専門職がいないためでもあります。文化ホールの担当者は他の事務系職員と同じく配置転換で配属されますが、ホールの仕事はほかの仕事より時間が不規則で、超過勤務、休日出勤も多いのです。そうかといって、専門職の扱いにはなりませんので、初めは情熱を持っていた担当者も次第に意欲をなくし、新しいことを考えて自分の仕事量を増やすよりも早く元の業務に戻る事を希望し始めるようになるそうです。公の予算で企画するのですから、評価が定まっていようがいまいが、もっと斬新で独自の企画を試み、ホールに相応しい人材を専門的に育成することこそが重要課題ではないでしょうか。

8月2日 ベトナムの言葉

 先日、ベトナムの古典舞踊を東京の港区にある草月(そうげつ)会館で見ました。この古典舞踊は、古くから宮廷に伝わるもので、日本の宮中の雅楽と同じ字を書いて「ニャニャック」と呼ばれています。音楽の始まる前に、一人の女性が舞台に出てきました。そして、ベトナム語で挨拶をしました。彼女の声をきいて私は驚きました。もしこの世で天使の声を聞くことができるとしたら、彼女の話し声はまさにそれでした。特に透き通った声質ではありません。中くらいの音域で、ゆっくりと、穏やかに、そして低い声や高い声を取り混ぜた抑揚のある声は、暖かい日だまりの中で夢うつつで音楽を聞いているようにさえ思えました。中国文化の影響のもとにある国ですが、中国語のような強いイントネーションを持たず、控え目で自己を主張することなく、ただ静かに状況の中に身を置いているかのような言葉です。
 彼女が舞台を去ると、音楽が始まりました。思った通り、彼女の言葉と同じ穏やかで控え目な音楽でした。
 初めて聞いたベトナムの言葉の静かな抑揚は、日本語の通訳の、一語一語連続が無く、言葉が断片的に発せられる響きと大きく違いました。日本語でも、京都の言葉はこのベトナムの言葉と近い特徴を持っているように思いました。嬉しいことに、私の暮らす上越の年配の方が話される言葉も、ゆったりとしたまろやかな味わいを持った言葉です。現在の日本語がほとんど全国共通の響きになってしまったのは音楽的な面を考えると、とても残念なことです。言葉の抑揚と音楽表現との密接な関係を感ずることに加えて、アジアのこの新しい響きとの出会いが音楽会の最大の収穫でした。
 舞踊家たちが登場しました。深みのある赤・緑・黄色のアオザイ風の衣装を身に付け、女性の舞踊家はコバルトブルーの帽子に山吹色の花を差し、素晴らしい色のコントラストを作り出していました。彼女たちの美しい笑顔に、真の平和を取り戻した安堵の表情を見たように感じました。

8月9日 新しい車

 先日、車を買い替えました。私は長距離運転が多いので、3年で走行距離が10万キロ近くになってしまうのです。ですから、だいたい3年に一度車を買い換えざるを得ません。ずっと黒っぽい色の車でしたから、今度は少し気分転換をしたいと思っていました。もっとも1500ccでは、選べる色数も少なく、色見本で暗い緑色に決めました。2週間後、車が届きました。見てびっくり。派手な青緑色なのです。こんな筈ではなかったのですが、自分で選んだのですから今更取り替えることもできません。実物を見ておけば良かったとつくづく思っている私に、ディーラーの人はにこにこして「目立ちますね。上越でこの色は2人しかいないんですよ。」と私の気持ちに追い討ちをかけて帰って行きました。
 突然、ニューヨークで友人と一緒に車を買いに行った時のことが思い出されました。ニューヨーク郊外の販売店では、ひろーい敷地の中に車がたくさん並べられ、私たちは、実際の車を見て買うことができます。そこで友人はきれいな水色の車を買いました。車の届く当日「これから行きます。」と販売会社から電話がかかってきました。電話に出た友人が、隣の部屋の私を大声で呼びました。「どうしたの?」と尋ねたら、「今電話があって、私の車が白い車になっちゃったの!」と、意味の分からない日本語で彼女が言います。「どういうこと?」と聞き返したら「この間見た車はもう売れていて、白い車しかないんだって」と。「そんな馬鹿な!」と言ったのですが、ニューヨークではあまり不思議ではない事件のようで、彼女はあきらめて白い車を買いました。思い出しながら、実物を見たってあんなこともあるんだから…と日本では有り得ないことで自分を慰めることにしました。
 駅近くの駐車場に止めて買い物をしたあと料金所に来た私に、係のおじさんが声をかけました。「珍しい色だねえ。こういう目立つ色が事故を起こさないんだよ。」と言ったのです。3年間の辛抱です。

8月16日 音楽会の切符

 先日友人からこんな話を聞かされました。知り合いのAさんの息子さんが音楽会をするので、親切心からそのちらしを配ってあげようと、暫く前に何枚か預かったのだそうです。友人の行きつけの喫茶店にも頼んで、ちらしと切符を置いてもらい、自分でもまわりの人に手渡したとのこと。演奏会が近づいたある日、Aさんから電話がありました。友人が電話口に出ると、Aさんは唐突に「あのう、まだ誰も取りに来ないんですけど」と一言。友人はその後忙しかったので、「何のことでしたっけ?」と尋ねますと、「このあいだ、ちらしを配って宣伝してくれると約束したのに、誰も切符を取りに来ない」と不満の声。友人としては、好意でちらしを配りましたが、ちらしを貰った人が行くかどうかは別問題。思わずむっとしたそうです。
 Aさんは、切符を置いてもらった喫茶店に売れた代金を受け取りに出かけ、喫茶店の主人に「いま、珈琲は飲んで来ちゃったから水だけ頂戴」と言ったのだとか。一緒にいた方があわてて気をきかせ「私はコーヒーを頂くわ」と言ったのでAさんも一緒に飲んで帰ったそうです。この話を聞いて「でも喫茶店に切符を置いてもらう時はちゃんと招待状ぐらい届けたんでしょうね?」と私が尋ねたところ、それもなかったとか。「そんな非常識な」と私は思わず叫んでしまいました。
 年間に数多くの音楽会が開かれる今の日本で、切符を売るのはとても大変なことです。どんなに金額が安くても、切符を買う人はその音楽会だけに行くわけではありません。ですから多くの演奏家たちはとても苦労して切符を売っているのです。Aさんのように、案内を配れば誰もが買ってくれると思うのは大きな思い違いです。切符を頼むなら招待券をとどけるぐらい常識ですし、何枚も売って貰ったのならばその好意に報いたいものです。この地では町の文化人の方々の常識にしばしば驚かされます。

8月23日 いたこ

 7月の終わりに、第2回目の「いたこ」の唄の大会を聞きました。昨年の夏、たまたまテレビで聞いたので、今年は是非実際に聞きたいと思っていたのです。高田、直江津、新井、妙高、大潟などから「いたこ唄」の名人が集まって声を競うのですが、単純な唄の節(ふし)を繰り返すあいだに、いろいろな歌詞が読み込まれます。歌い方には、高い音から歌い出す方法と、低い音から歌い出す方法と2種類があるようで、歌の終わり方は、群馬県の八木節の終わり方に良く似ていました。歌詞には男女の恋心を歌ったものもあり、古代の歌垣(うたがき)を思わせる内容もありました。
 地元の70人ぐらいの人々が集まった会場では、50代から80代ぐらいの男女が番号を呼ばれると次々に舞台の中央に進み出て、自慢ののどを聞かせます。客席も舞台もみんな歌仲間のようでした。
 一人の歌に、太鼓や鉦(かね)のお囃子と掛け声が付きますが、歌い手の中には一人で来た人も多く、保存会長さんがあわてて舞台に駆けつけて、お囃子の掛け声を手伝うなんていう一幕もあり、心温まる大会でした。
 囃子によっては、三味線や尺八を入れた演奏も多くあるのですが、三味線や尺八が入ると、どこにでもある民謡のようになってしまって、あまり面白くありません。歌い手は自分の声の高さにあった自由な音から歌い始めますので、三味線が入ると楽器に音を合わせなくてはならなくなるからです。それでも三味線は、まだ音の移動がしやすい楽器ですが、尺八は決まった音で始まりますから、「いたこ」の自由な歌を不自由にしてしまい、かえって不向きな気がします。どの地域の民謡でも、とにかく三味線や尺八を入れれば音楽的になると錯覚する傾向があるのは残念です。恐らく「いたこ」の場合も、三味線や尺八は近年取り入れたものでしょう。
 私にとっては、太鼓伴奏だけの「いたこ」の自由な節回しのほうがずっと面白く聞こえました。

8月30日 どこでも同じ祭りの風景

 青海町に、昔からの盆踊り唄があるというので、いつか聞いてみたいと思っていました。ところが、この頃はなかなか歌える人がいなくなり、お盆でもテープの音楽が多いとのこと。先日聞いた上越の「いたこ唄」も、だんだん歌える人が少なくなっています。そんな時、糸魚川祭りの「おまんた囃子」の様子をテレビで見ました。歌は民謡歌手の三波春夫。ついこのあいだ歌い始めたとばかり思っていた歌がもう糸魚川では盆踊りの歌として定着しているようです。
 この頃は、どの地域でも民謡歌手の歌う新しい盆踊り歌に合わせて、通りを流し歌い踊ることが人気のようですが、その土地で育った音楽に興味を持つ私のような者にとっては、どこの夏祭りも皆同じで残念です。
 もちろん、古くからある盆踊り唄と言っても、「いたこ」は、江戸時代に関東で流行った節が伝わって、土地土地で変化していったわけですから、新しい歌が悪いと言うわけではありません。でも当時と今との根本的な違いは、唄や伴奏にCDやレコードの音を使っている限り、踊りには参加できますが、唄や伴奏に参加することができないので、その土地らしい変化が起こる可能性がないということです。言い換えれば、このことは、日本人の「唄好き」な民族性を失わせている原因になっていると言えましょう。そしてこのひずみが「カラオケ」人口の増加に結びついていることは間違いありません。
 越後にも、いろいろな唄や踊りが伝えられているのに、どうしてこれらの良い唄や踊りを生かさないのでしょうか?富山の八尾の「風(かぜ)の盆」や「郡上の盆踊り」のように、その土地で育った歌や踊りが今も生き生きと歌い踊られている所もあるのに、どこにでもあるような歌や楽器演奏ばかりを集めた祭りの作り方を見ていると、その発想の貧困さを感じてしまいます。ブラスバンドや民謡流しのない祭りがあっても良いと思うのです。

9月6日 夕日

 何年も前の夏の終わり近く、上越の海で、生まれて初めての美しい夕日を見ました。夕日は海に「沈む」のではなく「溶けてゆくんだ」と、始めて知った経験でもありました。  水平線近くまで落ちてきた太陽が、水面(すいめん)に接すると同時に、その金色(こんじき)の光が水面(みなも)に映り始めました。ちょうど、金色(きんいろ)の絵の具をどろりと溶き出したように、光が広がって行きます。詩心があれば、きっと美しい言葉の表現が出来るのでしょうが、現実的な私には「溶ける」と表現するだけで精一杯なのが残念です。
 近年他界したスペインの画家「サルバドール・ダリ」の作品に、たしか「柔らかい時計」という作品がありました。私がちょうど中学校1年生の時に、品川の東京プリンスホテルで「ダリ展」が開催されました。教科書で見ていたダリの実物をどうしても見たくて、山梨から上京したのを覚えています。海に溶ける夕日は、昭和40年代に見たダリの「柔らかい時計」を私に思い出させました。海に溶け流れる太陽は、ただ単に美しい太陽ではなく、シュールレアリスムの絵画のように目に焼き付いたのです。
 今日の夕日は美しそうだからと、ある夕方、米山あたりをドライブしました。国道8号線を通って、日本海が良く見えるカーブにさしかかった時、修行中なのでしょうか、笠をかぶり、黒の装束に身を包んだ、禅宗らしい一人のお坊さんが、欄干にもたれて海を見つけている姿に会いました。一瞬、時がタイムスリップしたかと思う光景でした。
 海辺の村に着くと、夕食の支度も終えたのか、海岸近くの家ごとに、コンクリートだたみに腰掛けて夕日を見ている人々の姿を目にしました。子どもも、老人も、会話をするでもなく、ただじっとコンクリートに座って、静かに海を見ています。こんな時、越後で暮らして本当に幸せだなと思います。

9月13日 声明(しょうみょう)

 「声明(しょうみょう)」という言葉をご存知でしょうか?「声」に「明るい」と書きますが、外国の首相との「共同声明」などと言う時に使われる「声明(せいめい)」と同じ字を書きます。でも意味は違っていて「声明(しょうみょう)」は、お坊さんが宗教行事で歌う「ふしをつけたお経」のことなのです。もともとインドで言葉の抑揚についての学問だったものが、中国経由で平安時代に日本に伝わりましたが、現在は広い意味で「般若心経(はんにゃしんぎょう)」のような読経(どきょう)も含んだ仏教の声の音楽すべてをさし、仏教音楽の代表的存在になっています。
 声明の音楽は、色とりどりの声が集まってゆたりと流れる、まるで宇宙の響きのような音楽です。今風に言えば、α波(あるふぁーは)の音楽といえましょう。1970年代に日本音楽の研究家や、現代作曲家がこの音楽性に注目するようになり、この10年間、声明の人気は高まる一方です。それに、この頃はお坊さんの声だけでなく、打楽器や弦楽器などとのジョイント・コンサートもますます盛んになってきました。
 そんな中で、昨年3月には東京の日本武道館で、真言宗豊山派(しんごんしゅう・ぶさんは)のお坊さんたち1000人が参加して、もと「鼓童(こどう)」のメンバーだった太鼓の林英哲さんや、シンセサイザーとのセッションが行われ、1万人をこす観客を動員したのですが、この時の感動を再現しようと、新潟県の豊山派(ぶさんは)のお坊さんたち70人が集合して、林英哲さんの太鼓と競演する音と光の祭典が、11月7日に長岡市立劇場で行われることになりました。東京や、京都大阪以外のお坊さんが自主的に企画する声明の音楽会は全国でも初めてではないでしょうか。新潟には、雨垂れ節(ぶし)という情緒のある旋律も伝わっていて、新潟独自の意欲的な音楽構成がなされています。9月初めにお稽古がありましたが、お坊さんたちの真剣な練習風景が実に印象的で、11月の熱気をうかがわせるものでした。

9月20日 パン屋さんのテーマ曲

 私が子どもの頃、美空ひばりの大好きな若い八百屋さんがいまして、車で野菜を売りに来る時に必ず流す音楽がありました。「勝つと思うな思えば負けよ」という「柔(やわら)」の曲です。遠くからこの曲が聞こえてくると、「あっ、ひばりちゃんが来た!」と言って、うちの母も隣の叔母ちゃんも買い物かごを持って走って行ったものです。この青年は「ひばりちゃん、ひばりちゃん」とみんなから呼ばれて親しまれ、この「柔」が彼の現れる信号になっていました。
 上越では、子どもがピアノを習い始める時の練習曲をテープで流しながらやってくるパン屋さんがあることを知りました。
 私の大学は、小学校の先生になるための教育大学ですので、学生たちは1年生の時にこのピアノの練習曲を必死にマスターしなくてはなりません。ですから、学生たちはよくこんなことを言います。「毎日毎日ピアノでバイエルに悩まされているところに、また外から同じ曲が聞こえてくると、ほんとにいやになっちゃう」と言うのです。勿論、学生だけでなく、教える側の私なども、できれば別の音楽を聞きたい心境ですから、初めてパン屋さんの音を聞いた時は、この練習曲がこんな風に使われることに驚きました。
 おそらく、この曲を選んだパン屋さんは、子どもの習う曲だから「愛らしいイメージ」と感じたのかもしれませんが、バイエルの場合は、この曲のイメージとして、初心者が苦労する「指の練習」というイメージがつきまといますので、聞いて心地好い音楽とは別の目的の音楽なのです。同じ曲でも、聞く側の置かれている状況によって、心地好くもあり、不快にもなるものなのです。
 でも、パン屋さんがこの曲を選んだことは、かならずしもパン屋さんの意図とは一致しないのでしょうが、強いイメージを与える信号になったことだけは確かなようです。

9月27日 空気の匂い  

 上越では、この土地で生まれ育った人以外をすべて「旅の人」と言うのだそうです。ですから、10年や20年ここに住もうと、やはり、地元の人とは区別されるとか。大学が開校した当初は、100人を越す教官たちが、県外からここに集まりました。当時宿舎の近くで買い物をした同僚が、店の人に「お客さんは旅の人だから……」と言われ、しばしきょとんとしたとか。なるほど「旅の人」か。なかなか情緒ある表現ですね……と感心したら、「そうじゃなくて、地元の人間と外来者をここでははっきり区別するんだよ」と言われ、驚いたことを思い出します。
 上越で初めて秋を迎えた頃に一番感動したのは、空気のおいしさでした。東京で生活していた頃には何も感じなかった空気が、ここでは実においしいと思ったのです。秋、車の開いた窓から、甘い匂いが入り込んできます。今まで経験したことのない心地好い香りです。暫くして、脱穀したあとの籾(もみ)を焼く匂いであることが分かりました。宿舎から見えるいつもの田畑に、ほんのりと煙が見えます。匂いはここからやって来るのでした。
 この時期、大学までの通勤に、たんぼに囲まれた細道を匂いを楽しみながら通うのが心地良く、いつも上越の秋を楽しんで来ました。遠くの風景が、籾を焼く煙の帯を山裾に抱(いだ)いて、山水画(さんすいが)のような趣(おもむき)を描き出します。心地好い匂いを感じながらこの風景の中にいると、自分がメルヘンの世界に迷い込んだような錯覚を覚えたものです。
 感動して大学についた時、地元出身の同僚にこの感激を伝えました。すると、彼が言いました。「でもね、山の近くでは稲を焼く煙が家の中にまで入って来て、近くの人はたいへんなんですよねえ。」
 私はなぜかこの時、「やっぱり私は旅の人なのか」と思ったのです。

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