茂手木 潔子 MOTEGI Kiyoko
上越教育大学 Joetsu University of Education


ふるさと散歩「越後に暮らして」

BSNラジオ連載 1994.5〜1995.6

5月7日 曹洞宗林泉寺

 9年ほど前の5月のことでした。教育関係の大学院生たちが「水芭蕉を見に行きましょう。」と声をかけて くれました。大学の裏手にある湿地帯に良く咲いているとのこと。着いて見ると、あまり背丈の高くない野 生の水芭蕉がひっそりと、湿地帯のあちらこちらに白い花を咲かせていました。水芭蕉で有名な尾瀬沼と違 う、人の手の入らない自然林の中に、時を向かえて咲いている花の美しさに暫く見とれていました。
 「せっかくだから、林泉寺に行ってみましょうか?」。大学院生の勧めに応じて、まだ訪れていない曹洞宗 (そうとうしゅう)の名刹(めいさつ)に出掛けることになりました。5月半ばの林泉寺は、まだ芽吹いたば かりの緑が、柔らかに寺全体をおおっていました。
 当時、私はオランダ人のフルーティストから、5月に来日するので上越の私の授業のなかで演奏してもよい という手紙をもらっていました。私の授業というのは、「現代音楽」というタイトルの講義で、20世紀からの ヨーロッパや日本の新しい音楽作品について扱う講義なのですが、彼のフルートの演奏が、綺麗なメロディー を吹くよりも、息の音を入れて尺八のように吹いたりする現代的な作品の演奏でしたので、ちょうど授業の内 容に合うなあと思っていました。でもどこで演奏してもらったら良いかしら……と考えていたところでもあり ました。偶然にも林泉寺を訪れた時、なんとなく「ここで音を出したらどうなるかな」と、山門の前で手を打 って響き具合を確かめて見ますと、驚きました!素晴らしい反響の仕方なのです。「この山門の前で演奏した らいいでしょうね。でもお借りできるかしら?」とつぶやいていたところに、箒を片手にご住職の笹川さんが 出ていらっしゃいました。そして、なんと笹川さんのご好意によって寺での演奏会が実現することになったの です。
 寺での演奏会はすでに10年で10回を数えました。今年も、5月19日の午後に尺八と琵琶のデュエットで武満徹 (たけみつ・とおる)の「エクリプス」の演奏をすることになりました。「泉が響く寺」とも言われる林泉寺の 緑の中で、この二つの楽器がどんな響きを奏でるか楽しみです。

5月17日 自然と人間

 上越・中越の自然の中を、折りにふれてドライブする度に、昔のままの日本の美しい自然がまだずいぶん残ってい ることに感動を覚えています。この5月も、連休を利用して、柏崎の大清水にある真言宗豊山派(しんごんしゅう・ぶ ざんは)の大泉寺(だいせんじ)を訪れました。この寺には、明治39年に国宝に指定された観音堂がありますが、目だ った標識があるわけでもなく、静かなたたずまいを見せています。どの道もかつては観音堂に行くために開かれた道な のでしょう。道幅は狭く、急な勾配で目的地に向かっていました。ちょうど仁王門の屋根の修復中で、観音堂の入り口 には束ねた藁が幾つも立て掛けられていました。
 仁王門の向こうには、草に覆われたもとの参道らしい小道が見えます。近くの小高い丘から見下ろす柏崎の風景は本当 に素晴らしいものでした。この寺には、観光名所にしようなどという商魂の逞しさは見られず、連休というのに観光客の 姿はほとんどありません。上越で暮らし始めてからそんな自然体の風景があることを知りました。
 県内にも観光名所として有名な寺もあります。順路のどの部屋にも立派な賽銭箱(さいせんばこ)が置かれ、手洗いのティッシュペーパーまで自動販売機で販売されていました。これも多くの観光客の出入りによる結果でしょう。大泉寺には入館料を払う受付けもありません。寺の縁起を書いたパンフレットも品切れとのことで、若い奥様らしい方がコピーを下さったくらいですから、観光宣伝も余りしていないのでしょう。この寺には特に駐車らしい設備もないようです。車で訪れた私は、狭い道でやっとUターンをして山を下りました。きっと、車なんかで訪れるのではなく、ゆっくりと参道を登って辿り着いた時に見る観音堂が本当の景色になるのでしょう。自然をありのままに残すことは、外から訪れる私たちのような「旅の人」にとって実に有り難いことです。でも、この土地に暮らす人々にとっては不便も多いことでしょう。何百年もの厳しい冬を乗り越えて、伝統ある建造物を維持することの大変さに思わず頭の下がる思いを抱きつつ寺を後にしました。

5月24日 蛙の歌

 上越に赴任する1年前の夏、大学の集中講義のために2日間だけ外来者用の宿舎に滞在したことがありました。夜8時を過ぎた頃、窓の外で、モーターの回転するようなウーッ、ウーッ、という低い音が聞こえます。一定間隔でうなりが続くと、そのあとで少しの休みがあり、また、次のうなり音が始まるのです。私の育った村では、昭和30年代から40年代まで各家で井戸を掘ってモーターを取り付けた水道設備が作られ、これを確か自家水道(じかすいどう)と呼んでいました。このモーターの回転音がこの晩に聞いた音にそっくりでしたので、「このあたりでも自家水道なんだな」と勝手に思い込んで、その晩は休みました。翌朝は、起きてみると実に静かな朝です。昨晩の水道の音も聞こえませんでしたが、このことを気にとめることもなく大学に向かいました。合同研究室で長老の教授が私に話し掛けてきました。「茂手木さん、夕べ蛙が鳴いてただろう」「え?」と思わず私は聞き返しました。急に昨晩のモーターの音を思い出したのです。私がモーターの回転音と思った音は牛蛙の鳴き声でした。
 5月の連休を過ぎると、自宅のアパートの回り中で蛙の声が一斉に聞こえ出します。アパートが水田に囲まれているためですが、それにしても何千匹の蛙が隠れているのだろうと思うほどの力強い合唱に圧倒されます。
 そして、この季節になると、私の車の運転は慎重になります。田んぼに近い道路を通る時には特にスピードを緩めて通ります。その理由は、雨模様の夕方、辺りが霞む頃、数十メートル先の道の真ん中に、本当に行儀良く横向きに正座しているのです。そして車が来ても避けてくれないので、よほど注意深く運転しないと人身事故ならぬ蛙身(けいしん)事故になってしまうのです。
 高速道路では狸が道を横切り、高速の下道(したみち)では、青鷺(あおさぎ)に道路を塞がれて驚き、そしてアパートの近くでは蛙を轢(ひ)かないように注意しながら運転をする。この生活を私はすっかり楽しんでいます。でも動物の方は、自分たちが通い慣れた道を支配されて悩んでいるのでしょう。

5月31日 谷の雅楽

   浦川原村に谷(たに)と言う名前の地域があります。一昨年、ここにある月影(つきかげ)小学校の校長先生が、この地域に伝わる雅楽の楽譜を持って研究室にお見えになりました。私の大学で雅楽の部活動があり、学生たちが時々演奏会をしていることをお聞きになって、訪ねて来られたのです。校長先生が持って来られた楽譜のコピーは、半紙に墨で書かれた手書きの楽譜で、《越天楽(えてんらく)》や《抜頭(ばとう)》という現在も宮中に古くから伝わる雅楽の曲でした。楽譜はカタカナと漢字の省略型とで書かれたものでしたが、これも現在の楽譜と共通点の多い楽譜でした。校長先生の相談は、これらの曲を復元するための譜の読み方を教えて欲しいと言うものでした。
 どの曲も今演奏されている曲でしたので、私はまず宮内庁の演奏家のテープをお聞かせして、明治以来演奏に使われている楽譜の読み方についてお話ししましたところ校長先生はとても興味深くお聞きになっていました。
 谷の雅楽の楽譜を拝見して私がとても興味を持ったことがありました。それは、古くから演奏されて来た雅楽のリズムが大きく変化していることです。例えば、もとの楽譜では「チーラーロヲルロ」と書かれたリズムが、「チーラーローヲールーロー」のように、どの音も長く引き伸ばして演奏しているのです。きっと伝承されている長い間にどこかで変化したのでしょうが、このリズムで演奏すると、元の雅楽とはかなり違った音楽に聞こえて来るのです。そして、校長先生は子どもたちがリコーダー演奏したテープを聞かせてくださったのですが、テープから聞こえて来た音は、雅楽とは別の音楽のようでした。でも、この音楽がとてもいい音楽なのです。中央の伝統芸能が周辺へと伝わり、新しい土地で、その土地にあった、音楽や舞踊を生みだしてきたことが、日本音楽の歴史の中でも大切なことですが、まるでその日本音楽の歴史の流れを実際に耳にしたような気がして、この音に私はとても興味を引かれました。校長先生のご相談を受けて、私は、是非、この変化した形を大切にして、今の雅楽と同じリズムに直さないでほしいと申し上げました。

6月7日 あるパーティーで

 越後で暮らし始めて間もないころ、コンサートの出演者に楽屋でインタヴューする役を仰せつかったことがありました。無事にこの役目を終えたあと、会の企画者から演奏者を囲んだ会食に参加するように誘われましたので、お言葉に甘えてパーティーの開かれる個人のお宅に伺いました。そこにはすでに数人が集まっていました。このお宅では、この様なコンサートが開かれるたびに演奏者を招いて食事会を企画しているらしく、集まった方々は常連のメンバーのようでした。
 私も部屋の一隅に座って会が始まるのを待っていましたが、次第に所在なくなるのを感じて来ました。というのも、私にとってそこに集まっている人々すべては初対面なのですが、その方たちはお互いに知っている同士。仲間同士での会話はすでに始まっているので、私の自己紹介もしづらく、新参者を紹介しようとする人もいないのです。そうこうするうちに、ゲストのピアニストも到着し、会の様子はますます身内がお客様を迎える会のようになってゆきました。私が仕事で出席するパーティーの場合は、様々なジャンルの方々が集まりますので、まずお互いに自分を紹介し合い、また、友人を介して新しい方(かた)にも紹介されるのが普通です。状況の大きな違いにとまどいながら、ただ黙ってにこにこしながら出された食事を見つめていたのですが、ついに20分程で引き上げて来てしまいました。
 その後、福井のある村に招かれて出かけた時も、これと同じ経験をしたことがあります。
 上越では「旅の人」という言葉が今も生きているそうです。何年暮らしていても、よそから来た人についてこの様に呼ぶのだそうです。通りすがりの人ならば、仲間にわざわざいれなくても良いということではないのでしょうが、これらの例のように、特にその土地の文化人の方々の集まりには、外部の人間が入りにくい共同体の存在があることを感じました。これらの経験は私にとってまだ理解しにくい越後の文化の一つです。

6月14日 栗煎餅を守る会

先日姉から栗煎餅がとどきました。姉の嫁ぎ先の母親が、義兄の好きな栗煎餅をいつも送ってくれるのです。今度もたくさん頂いたのでお裾分けとのこと。私たち姉妹も兄も山梨出身で、子どもの頃から、黒い四角の缶の表面に茶色の栗の絵が入った栗煎餅の缶は、「美味しいお菓子で大事に食べなくてはいけない」というイメージで、懐かしい思い出の一つなのです。
 そんな折り、BSNテレビ・ニュース23のキャスター筑紫哲也さんが、タレントの永六輔さんと座談している番組を見ました。なんと、その時の話題は「栗煎餅を守る会」を作ったことについてだったのです。永さんもこの栗煎餅が大好きだそうですが、最近はほとんど見掛けなくなったと言っていました。いつも栗煎餅を売っているお菓子屋さんなのに最近見掛けなくなったので、お店のおばあちゃんに「栗煎餅はないんですか」とお尋ねしたら、小声で「ちょっとお待ち下さい」とお店の奥からそおっと出して来たというのです。理由をおばあちゃんに尋ねたら、保健所の係員が来て、栗煎餅は煎餅の中に栗が入っていないから不当表示にあたるので売ってはいけないと注意されたとのこと。地域によっては生真面目で一生懸命の保健所の係員がこんなことを取り締まっているとか。「まさかそんなばかな!」と思いましたが、どうやら本当のようです。この話上手な二人は「じゃあタイ焼きには鯛が入っていないし、タイガー魔法瓶には虎がはいっていないよなあ」などと次々に例を出していましたが、こんな何気ない話題の中から重要な文化の問題が提起されていました。
 重箱の隅的なことにこだわり過ぎて形式だけを整えようとする結果、実は日本人の持っている自由な発想の文化や伝統が失われて行くような気がしてなりません。
 この番組以来私も「栗煎餅を守る会」に入ることにしました。この会は、入会料もなし、賛成した人は誰でも会員になれるのだそうです。

6月28日 国道253号線

 以前は実家に帰る時に、よく国道253号線を車で通っていました。山間(やまあい)の道から見える風景は、通る度に変化を見せ、それはもう素晴らしいものです。それに、この道を走りながら目に映る折々の花は、子ども時代の「季節の移り変わり」の記憶を呼び起こしてくれることもこの道が大好きな理由です。都市で暮らす間にすっかり忘れていた記憶だったからです。
 春の「山桜」、5月には道ぞいに紫や黄色の「あやめ」そして、山の中腹には「藤の花」が見渡せます。6月に近づくと薄いピンクの小さな花の咲き揃う「うつぎ」が、至る所で目に入り始めます。うつぎが終わると薄紫の「桐の花」。いまごろは、そろそろ「立葵」の咲き始める頃でしょうか?「立葵」の花の色にこんなに種類があるとは思いませんでした。白・薄桃色・濃いピンク・赤……と、それぞれが、その土地の土壌によって異なった色で現れるのでしょうか?この道を走り始めてから、群れて咲く立葵の野生的な美しさにすっかり夢中になっています。
 浦川原の辺りでは、春から初夏にかけて国道沿いに小さな鉢植えが数メートル間隔で置かれます。「フラワーロード」と書かれ、どうも地元の老人会の仕事のようです。白いプラスチックの鉢に園芸場で売っているような花が一鉢一鉢かなり長い距離にわたって植えられて並べられているのを見た時は、心温まる思いがしました。
 国道253号線はこの10年間にずいぶん整備され、山間の曲がりくねった道のほとんどが広げられて直線道路も多くなりましたが、上越から浦川原に向かう253号線には、近年の道路整備よりずいぶん以前に作られたかなり長い距離にわたる直線の農道があります。この道が、日本の道路に珍しく、とにかくずーっと真っすぐなのです。この真っすぐな道を走る度に、新潟県の広さをつくづく感じます。

   
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