茂手木 潔子 MOTEGI Kiyoko
上越教育大学 Joetsu University of Education


ふるさと散歩「越後に暮らして」

BSNラジオ連載 1994.4〜1995.3

1月3日 消えて行く羽根突きの音

 かつて日本の新たな年は、羽根突きの軽やかな木の音と様々な鈴の音色で始まりました。いつもは賑やかな商店街も、正月三が日はひっそりと静まりかえり、遠くからコーンコーンと羽根突きの音だけが聞こえてきたものです。
 羽根突きの歴史は古く、15世紀半ばごろに公家たちの間で始まったと言われ、昔は、コギイタなどと呼ばれたそうです。かつては至る所で耳にした羽根突きの音も、この10年間に、ほとんど聞かなくなってしまいました。車の通行が増えてきたことで、羽根突きをする場所がなくなってしまったことも原因の一つでしょうが、でもその理由ばかりではないようです。日本人の音の世界が明らかに変化してしまったのでしょうか。
 明治9年から2年間、東京大学で生物学を講義したアメリカの動物学者モースは、大田区の大森貝塚を初めて調査した学者ですが、彼が日本に滞在していた時の日記や撮影した写真などがまとめられて、『モースの見た日本』の題で出版されました。ここには、明治時代の日本人の生活が細かく記録されていますが、この本の中に、モースが聞いた日本の様々な音についての話が載っています。たとえば、明治11年の暮、彼が羽根突きを見た時の様子が次のように日記に書かれています。「われわれの羽子板はサム、サム、サム、という音をたてるのに、日本のは固い種子を木の板で打つので、私にはどうしてもクリック、クリック、クリックと聞こえてしまう。」とモースは書いています。一人のアメリカ人が聞いた日本の音は、自分たちの遊びに似ているのに、母国の柔らかな響きとまったく違い「高音で堅くはっきりした音」に聞こえたことが良く分かります。
 この音の好みの違いは民族性の違いでもありました。でも残念ながら西洋音楽による音楽教育に加えて、昭和35年以降の高度経済成長期以降の、子どもの日常の世界の変化は、私たちが育んで来た音の世界をも消してしまったようです。

1月10日 がんぎ

 越後の高田の景色と言えば「がんぎ」のある町並み。たしか中学生の社会科の教科書で「がんぎ」の写真を見たことがありましたので、その頃から知っているつもりでした。でもその理解の程度は、雨や雪の時にがんぎの下を歩いていれば濡れなくて便利だと言う程度の理解にすぎませんでした。こちらで暮らし始めた昭和59年は4年連続の大雪の2年目。その頃は、雪道の車の運転に慣れませんでしたので、雪が降り始めると、こわごわ大急ぎで東京に帰っていました。
 でも3年目ともなると雪道にも慣れ、大雪の日も平気になりました。そんなある日のことです。何日にもわたって降り積もった雪で、町全体の活動が止まってしまったような1月の終わりごろ、直江津駅から特急で上京するために、私はバスを待ちました。普段は15分程で駅まで到着するのですが、いつもの雪の日のようにバスはだいぶ遅れて停留所に着き、走り始めてからもゆっくりと走りましたので、駅前商店街の入り口に着いた時は、さらに20分近く遅れていました。バスの中で流れたアナウンスによると、雪降ろしのため駅まで行(ゆ)かずに途中で終点になると言うことでした。
 時間の余裕を持って出ては来ましたが、すでに予定より30分以上遅れています。さすがの私も列車に遅れそうで心配になり、バスの運転手さんに、「特急に間に合いますか?」と尋ねに行きますと「大丈夫でしょう」と楽観的な返事。………少し安心しました。
 駅までまだ大分あるところで、バスは終点になりました。道路には本当に屋根から降ろした雪がうず高く積まれ、歩くどころではありません。生まれて初めて「がんぎ」の役割を知った日です。細い軒下をやっと通り抜けて、駅に着いて見ると、特急はすでに出た後。
 こういう日には、決めた列車に乗ることを考えること自体が浅はかなんだと分かった一日でもありました。

1月17日分 ビニール傘

 この頃、車での移動が多いのであまり傘を使ったことがありません。それに、少しの雨なら濡れても平気な性格なので、たいてい傘を持たずに出掛けてしまいます。そんな時、急に雨に降られることがあり、あわてて五百円ぐらいのビニール傘を買うことがよくありますので、家に何本かのビニール傘がたまっています。やはり、きちんと傘を持つ習慣を身に付けないと、かえって不経済でいけません。
 でも、上越に来て、このビニール傘がとても役に立つことに気が付きました。風の吹く雪の日、傘を普通にさしていたのでは雪が顔の方にも舞い込んで来ますので、進行方向に向かってさしたいのですが、その様に傘をさすと、普通の傘だと今度は歩く先が良く見えません。そんな時に、このビニール製の透けた傘がとても便利なのです。雪が吹き込む方向に傘をさしても、透き通っていますので、前が良く見えて歩きやすいのです。この発見は大きいぞ……と我ながら嬉しくなりました。
 そんな訳で相変わらずビニール傘を持って動き回っているのですが、この間東京の自宅に帰った時、雨模様の日に私が外出するのを見た母親が、「あなたそんな傘しかないの?私の貸してあげましょうか?」と、心配顔で私に言いました。その日はたまたま仕事で出版社の方に会う約束をしていましたので、珍しくめったに着ないスーツを着ていました。きっと、母は私の洋服とビニール傘が不釣合に見えたのでしょう。「これが便利だからいいの」と言う私に「もう少しちゃんとした傘をもったらいいのに」と、母はどうしても理解しがたい顔をしていました。なるほど電車に乗って、こんな雨の日にビニール傘など持っている人がいないことに気がつきました。仕事の帰りには雨もひどくなってきました。強い雨にはこの傘はやっぱり小さく頼りなげです。その後、私は外出用に1200円の傘を買いました。

2月7日 関西大震災に思う

 ドイツのベルリンとオランダのハーグに住む友人から国際電話が入りました。受話器を取ると、「Kiyoko! are you OK?」と第一声。そうです。海外では、関西大震災のニュースが大きく報じられていますので、ひょっとして私も巻き込まれていやしないかと気遣っての有り難い電話でした。ベルリンの友人は、アメリカ人とスイス人の夫婦なのですが、スイス人の旦那様マックスさんが1月初めにトヨタ財団の記念行事のシンポジウムに招かれて来日しました。たまたま成田についた1月7日の夜、私の家族と一緒に食事をしていた時、東京では震度3の地震がありました。彼にとっては初めての経験だったようで、ずいぶん驚いたようです。ベルリンからの電話で友人が「マックスが東京で地震にあったでしょう。凄く怖かったんだけど、潔子達がちっとも驚かないから不思議だったんだって」と言いました。私達の世代は大きな地震を経験したことがなかったので少し揺れても大したことないと地震慣れしていたのかもしれません。でも今回のようなことがあると、人ごとではありません。
 私の研究仲間が神戸の長田区でしたが、やっと無事であることが分かりほっとしました。でも家は半壊してしまったとのこと。この春一緒に仕事をする予定の方の家は、あの土砂崩れのあった仁川(にかわ)にあり、家がすっかり目茶目茶になってしまったとか。本当に恐ろしいことです。恐らく新潟県の方々は、かつての地震の体験を思い出されて怖い思いをされたり、また、お知り合いの方が被災された方もあることでしょう。
 こういう大変な自然災害を目のあたりにすると、都会を離れてもっと安全な土地へと移り住む人々が増えてくるのかもしれません。地震によって生死を分けたのが日頃の隣近所の付き合いの程度だったとも聞きます。かつて日本中の地域共同体が持っていたコミュニケーションの緊密さの重要性が再認識される時かもしれません。私が生活するこの地にはその良さが今なお生きていることは幸せなことです。

2月14日 音色を聞き取る雪国の人々

 この時期、車で遠くまで出掛けることが大変なので、列車を良く利用します。帰りは、直江津駅から時々タクシーを利用しますが、そんな時よく車の中で運転手さんと話をします。1月半ばの大雪の頃、車に乗ると、運転手さんが「今日は道が寒(かん)じてるからね」と言いました。何のことか分かりませんでしたので、「今何ておっしゃいましたか?」と尋ねてみました。すると運転手さんは穏やかな声でもう一度「寒じる」と繰り返してくれました。「寒い」と言う字を書いて「寒じる」と言うのだそうです。なるほど雪国ならではの言葉です。
 先週も昭和59年からの大雪の時を思い出しながら、運転手さんとこんな会話をしました。「夜中の12時頃にしんしんと雪が降っていたら、夜中でも雪下ろしをしなんきゃならんしね」と運転手さんは言います。そして、続けて「そのうちに屋根がミシミシ音を立て始めるからね。こりゃー雪下ろししなきゃならん。ギシギシ言い始めたら、もう大変だ。」「どこがミシミシとかギシギシ言うんですか?」と私。「柱だね。柱がギシギシ言い始めたら危ないからね。あの太い柱が音を立てるからね」と運転手さん。そういえば、福井県出身の工学博士で童話作家の加古里子さんも、「ゆきのひ」と言う童話の中で「雪が、ぎしぎし 言うくらいに たくさん 積もると、 屋根から 雪を おろさなくてはなりません」と書いています。そうかこの音は屋根が雪の重みで柱を圧迫して軋む音なんだ、と運転手さんの話で分かりました。
 しんしん……ミシミシ……ギシギシ……。雪国で生活する人々は、耳を澄ませて自然界の音の変化を聞き取っているのです。厳しい自然の中で生活する人々にとって、音色の一つ一つの変化は、自分たちの命とも関わる重要な記号として意味を持っていることを知りました。

2月21日 雪かき

 越後の雪もやっと峠を越す頃、東京では、ある日突然大雪が降ることがあります。大雪といても、20センチ程度なんですが、大都会ではこんな程度でもひどい交通渋滞を起こし、凍った雪道で滑ってころぶ人が続出するので大事件です。交通渋滞や、滑って怪我をする主な原因は、道路の雪かきがほとんどされないことにあります。我が家のあたりは、戦後すぐから住宅地になっていましたから、年配の方々も多く住んでいますので、雪の降った朝は早くから玄関や家の前の雪かきの習慣があるのですが、新築アパートの前の道路などは、若い人々の生活習慣に雪かきの習慣がないので、道路に降った雪がそのまま積もっているのです。
 都内のほとんどの道路は除雪されないまま。そこを車はチェーンなしでよろよろ走り、人々は靴跡で凸凹になった雪を怖々と歩くといった状況なのです。
 靴底にゴムのすべりどめのついた防寒靴を置いている東京の靴屋さんも滅多にありません。ですから、解けた雪がカチンカチンに凍りついた道を、底にすべりどめのゴムのない靴で歩くのですから、滑って転ぶのもあたりまえ。雪に対してまったく生活の知恵を持たない土地がらはこんなものです。
 ですから、一晩で50センチ以上降ろうが、早朝には道路がすっかり除雪されて、いつものように車が走れる状態になっている雪国の対応の素晴らしさは感動的です。路肩に積もった雪で普段の三分の二の幅になってしまった道路をバス同士がすれ違う時、片側の車輪を積もった雪に乗せ、斜めになっても走って行くバスを見た時の驚き。このかっこよさを東京の人にぜひ見せたいものだと思いました。
 4月初め、上越に赴任する前の日に、宿舎の係りの人に「道路は走れますか?」と尋ねた自分を思い出して、「雪国を知らないとこんなものなんだな」と今思い出してもおかしくなります。今や雪にもすっかりなれた私は、大雪の日の東京を自慢げに車で走り、ゴムつきの靴で颯爽と歩いて楽しんでいます。

2月28日 栃尾の手かがり手毬

 栃尾の油揚は、その分厚さと大豆の香ばしい味で良く知られています。この油揚を買いに友人と出掛けたことがありました。市内を散策していると、公共駐車場の近くの土産物屋に気が付きました。店内には、様々な模様の大小の手毬が至るところに飾られています。何気なく手毬を揺らしてみると、シャラシャラと音がするではありませんか。大中小どの手毬にも中に何か入っているようです。私が今まで知っていた手毬は振っても音がしませんでしたので、音を出す手毬に出会って感激してしまいました。
 その後、私は手毬の中に入れる木の実について詳しくお聞きするために、「栃尾てまりの会」会長の棚村菊江(たなむらきくえ)さんを訪ねました。
 棚村さんのお話では、昔の手毬は、蓑虫のような形をした「栗の木虫の殻」の中に、種のようなものが入っていて音を立てたので、それをくるんで毬を作ったとか。今は、小さな紙の箱に様々な木の実を入れ、ゼンマイの綿でくるんでまるい形を作り、その上を糸で巻いて作るのだそうです。中に入れるのは、数珠球(じゅずだま)、じしゃ、のらご、けんぽろ、はと麦、そして蜆の貝殻や籾殻(もみがら)。昔は7種類の木の実を取り混ぜて入れたこともあったそうですが、この頃は、ピスタチオの殻を使うこともあるとか。棚村さんが大事そうに取り出した木の実は、いろいろな大きさと形をしていて、どれもが素敵な色合いでキラキラと光っていました。これらの木の実や貝の鳴る音を私は聞いていたのです。この日いただいた木の実や草の実は、今、私の大事な楽器コレクションに入っています。
 手かがりの手毬は、昔から三月の節句に女の子のすこやかな成長と健康を願って、おばあさんから孫へと届けられてきたのだそうです。もうすぐ雛の節句、きっと今頃保存会の皆様は手毬作りで忙しいことでしょう。

3月7日 新幹線の中で

 先日上越新幹線の中で、私はふいに名前を呼ばれました。驚いて振りかえると、向かいの席に文楽(ぶんらく)三味線の演奏家の鶴沢浅造(つるざわ・あさぞう)さんが座っていらっしゃいました。文楽とは、江戸時代に「曽根崎心中」などの名曲で知られた、大阪生まれの人形芝居の音楽で、語りと三味線とで進むこの音楽は「義太夫節(ぎだゆうぶし)」とよばれます。浅造さんのご本名は上原さんと言い、越後の巻町のご出身で、代々の造り酒屋の息子さんでしたが、東京外国語大学のフランス文学科を卒業した後、文楽の世界に飛び込んでしまったと言う変わり種でもあります。彼のお師匠さん、鶴沢重造(じゅうぞう)さんも、文楽三味線界では理論派の演奏家として知られていました。
 昭和初期まで多くの人材によって日本の伝統芸能の黄金時代を築いてきた文楽も、明治以来の西洋音楽教育が行き渡るにつれて、現在活躍する三味線演奏家は20人にも満たなくなってしまいました。そんな中で浅造さんは日本の伝統を支える重要な若手の一人であり、貴重な人材なのです。
 ちょうどこの日は国立劇場公演の千秋楽。普段は関西で生活する浅造さんですが、故郷の新潟へ帰る途中で偶然にも私の隣席に座ったのでした。久し振りの出会いに時間も忘れ、音楽の話やら、最近お兄さんが始められた越後の地ビールの話やらをしている内に2時間はあっという間に過ぎてゆきました。
 文楽の世界は、学歴も家柄も通用しない、また、歌舞伎のように家元制度のない、演奏だけの実力世界として知られています。浅造さんの生き方、自分自身の存在だけが拠り所の生き方は、安穏として暮らす私に、いつも心地好い緊張感と自分を見詰め直す機会を与えてくれたものです。穏やかな口調で話す浅造さんの印象とは異なり、平穏な日常から厳しい芸能の世界に飛び込んだそのダイナミックな人生の選択に、越後人の豪快さを確信した2時間でした。

3月14日 市議会中継に思う

 地元のテレビ局が、市議会の中継をしています。でもこの中継を見続ける市民がどのくらいいるだろうか…といつも思います。地元テレビ局のカメラ台数の不足や技術不足も理由と思いますが、それにしても、市長を始めとする議員たちの文章の棒読みは、魅力のない日本語の代表格ではないでしょうか。テレビ中継は、市民を意識したものでしょうに、下を向いたまま、ひたすら早口で原稿を読み続けている市長の姿は、市民不在の市議会といった印象で、画面を見るのが苦痛になります。
 衛星TVの海外の議会中継では、議員たちの個性あふれる発言が、あたかも映画を見ているような錯覚を与える場合もあり、じっと見入ってしまいます。日本のこの頃の国会中継では、議員たちも自然な言葉で話すようになったので、以前より少しは面白くなってきましたが、市議会のこの棒読みで過ぎる時間を何とかできないものかと思います。
 実は同じような状況が、学会発表にも多く見られます。学会発表こそ、自分の研究内容を聞き手に伝えることを目的としていますから、聞き手を意識した発表をすることが大切です。でも実際は、声が小さくて聞き取れなかったり、うつむいて早口で話すなど、自分だけの自己満足に終わってしまう発表が結構多いのです。以前、ニューヨークのコロンビア大学で国際学会が開かれた時、発表前の学生たちの授業に出席する機会を得ました。彼等は一人一人、声の高さ、話すテンポやリズム、間の取り方を、教授から指導されます。この授業を聴講した私も指導して頂いたのですが、アメリカの多くの大学ではこのような指導が授業に取り込まれているとのことでした。国際学会には、普段英語を話していない国の研究者たちが集まりますので、外国の研究者にも分かるように話さなくてはいけないという基本があります。
 市長が、そして議員の方々が、自分たちの生きたことばを話すような議会になったら、もっと多くの市民が政治に関心を抱くようになると思うのです。

3月21日 ある予告

 3月の初めに大阪にでかけましたので、上方歌(かみがたうた)の名人、竹内駒香(こまか)師匠にお目にかかりました。駒香師匠はすでに80才近い上方歌の歌い手で、その美声は日本中の地歌舞(じうたまい)の舞踊家の間で良く知られています。80才と言えども、師匠は立派な現役。現在も新幹線で日本中を飛び回って演奏活動をしておられるから驚きです。
 今回お目にかかったのは、先日の地震の時、師匠の家もずいぶん揺れて、大変こわい思いをされたと伺ったので、お目にかかってお見舞いを言いたかったためです。当日、その時間は、「もうこれでおしまいか」と本当に思ったそうで、お一人でさぞ恐ろしかったろうと、聞きながらご無事で良かったとつくづく思いました。
 帰りの新幹線で、週刊新潮に目を通していると、興味深い記事が載っていました。東大地震研究所の助手が、台湾東部の地震予知に成功したと言うニュースについての記事でした。助手の方は、この地震予知について、4年前から台湾の専門学校と共同でその地域の断層の観察を続け、昨年の秋ごろからこの断層のひずみが大きくなっているのを発見し、それが地震予知の成功につながったのだそうです。
 興味深いのは、この彼が今注目しているのが、新潟県の長岡平野と西山丘陵の間の断層なのだとか。これについての記事には次のように書かれています。「1854年に起きた東海地震に先立つ地震を調べて見たら、まず1833年に山形県沖で地震があり、その後1847年に善光寺地震、1853年に小田原地震と、東北から南下する形で発生していた。1983年の日本海中部地震がこの山形県沖地震にあたるとすれば、次は上信越地方なのです。」とのこと。糸魚川に始まるフォッサマグナの右端は、柏崎あたりになるとも聞きました。何気なく余所事として聞いていた台湾での地震予知成功のニュースでしたが、次が西山あたりと聞いて、心穏やかでなくなるのは私だけではないでしょう。

3月28日 春・そして暖かい心

 雪国の春には特別の情緒があります。もう大雪が来ないから、雪かきをしなくても良いという安心感からでしょうか、日に日に暖かさを増すあたりの気配に、何かそわそわと落ち着かなくなります。春を迎えることがこんなに嬉しかったのかと、雪国で生活するようになってから再び思い出すことができました。通りすがりに出会う見知らぬ人々とも、何気なく会釈できる上越の春です。
 先日、東京の私鉄に乗りました。右隣に座った20代後半らしき男性が、右足を大袈裟に組んで、靴が今にも私の衣服に触れんばかりでした。その日私は結構重たい荷物を持っていました。持っていた紙袋をその男性の足の方に置きなおして、迷惑だと言う私の意思表示をしたのですが、まったく気付かずに足はそのままです。
 この電車の後で、別の私鉄に乗り換えました。入り口近くの吊り革につかまっていると、座席に座っていたやはり20代前半の男性の二人づれが、席を詰めて私に声をかけてくれました。「どうぞ」というその言葉を聞いた時、その顔立ちからベトナムかマレーシアあたりの方だろうと思いました。にこにこした目はとても優しそうでした。私がきっとよほどくたびれた表情をしていたのでしょう。でも次の駅で降りる予定でしたので、お礼を言ってご辞退しましたが、アジアの人々の心に、日本人も持っていたはずの大切なものを見た気がしました。そう言えば、子どもが国際結婚したらどうするかという最近のアンケートで、「外国人の方が礼儀正しい」と言った賛成意見がありましたっけ。
 今韓国で二つの日本人論が話題になっています。「日本人に見習うものは何もないとする説」と「あると言う説」の2冊の本が、ともにベストセラーとか。
 欧米人にばかり憧れてアジア人に冷たかった日本人。アジアの一員であることを忘れているうちに、自分たちの良さをすっかり失ってしまったのでしょうか。
 人々の心だけは、標準語のように日本一律になってほしくないものです。

 
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