茂手木 潔子 MOTEGI Kiyoko
上越教育大学 Joetsu University of Education


ふるさと散歩「越後に暮らして」

BSNラジオ連載 1994.4〜1995.3

10月4日 月影小学校の子どもたち

 以前この時間に、浦川原の谷という地域に伝わる雅楽の話をしたことがあります。その時は当時の校長先生が持ってきてくださった古い楽譜を見ただけでしたが、今度は、月影小学校の子どもたちが実際に練習しているというので、それを聞きに出かけてみました。10月には村の文化祭で、そして11月にはフーテンの寅さんで有名な東京の柴又の帝釈天の小学校との交流として演奏するということで、その練習の真っ最中だったのです。
 大学で雅楽の部活動をしている学生3人と一緒に小学校に着きますと、用意された教室には古びて歴史を感じさせる鞨鼓(かっこ)という太鼓、そして金属製の打楽器の鉦鼓(しょうこ)、今年村が買ってくれたという真新しい楽太鼓(がくだいこ)が並べられて、すでに15〜6人の子どもたちが正座して、私たちを迎えてくれました。
 早速、子どもたちの演奏を聞きましたが、なかなか音の出にくい横笛やダブルリードの篳篥(ひちりき)を上手に吹いているのです。いつもの音楽の授業で習っている曲とはほど遠い音色の、そしてリズムや旋律もなかなか覚えにくい曲をこの子たちが良く練習したなあと、子どもの持つ可能性の大きさを改めて認識し直しました。
 確かに、長い年月を経て谷の雅楽はもとの雅楽からはメロディーもリズムも、篳篥と笛との合わせ方も変化してしまっています。でも、この変化してしまった状態の中から伝わってくる土地の人々の音色(ねいろ)が感じられるのです。ただ明らかに音がずれた状態もあります。これは、篳篥という楽器が音を取りにくいことと、雅楽の笛が高価なので竹の別の笛で吹いたためでした。私はこの雅楽を保存するためのお手伝いをすることになるのですが、子ども達の素晴らしい能力を生かして、良い形で伝承して行くために、慎重に考える必要があります。稽古を聞いて帰る道すがら、学生たちがこんなことを言いました。「こんな小学校で先生ができたら本当に素晴らしいね」と。生き生きした子ども達の目が、彼女たちに感動を与えたのです。

10月11日 留学生

 以前、私の授業に中国からの留学生がいました。学期初めの頃、彼女の中国語の名前が読めなくて、「何さんと呼んだらいいかしら?」と尋ねたら、彼女は日本名で答えてきました。しばらくの間、彼女をその日本名で呼んでいましたが、その後たまたま話をする機会がありましたので、「もし構わなければ……」と日本名の理由を聞いてみました。すると彼女は「日本の名前を持っているほうが、いろいろと便利なんです」と言うのです。事情を聞くと、中国名は日本でも使う漢字ですが、日本の読み方で名前を読むと、余り響きが良くないので、周りの人達にからかわれたからだと言います。でも彼女の漢字の名前はとても魅力的な名前で、美しい彼女にぴったりなのです。「お父さんやお母さんはあなたのことを思ってつけた名前でしょう?」と聞くと、彼女は嬉しそうに「お母さんが一生懸命考えた名前だと言ってました。」と答えました。「だったら、この名前を使うのが大切よ。今度日本の人から名前を聞かれたら、日本語の音読みなんかしないで母国語の読み方で教えてあげたらいいでしょう?そして、ちゃんと中国語で発音しなさいと言ったら良いのに」と私が言うと、彼女は嬉しそうな顔をして「ええ、今度はそうして見ます」と答えました。
 「どう?友達はできましたか?」私が続けて聞きますと、「みんなとてもおとなしくて、あんまり話をしないんです。」と言います。「あなたから話しかけたら良いのに」といいますと、「始めは話しかけたのですが、すぐまた静かになっちゃうんです。」とのこと。「日本人は、知らない人に自分から話そうとする人がなかなか少ないですね。上越ではよく同じ経験をしますよ。人が集まっている所に行って、私だけ初めての顔なんですけど誰も紹介してくれなくてね。だからこの頃は、私から『初めまして。私はこういうものです。あなたは何をなさっている方ですか?』って話すようにするの。こちらから行かないと、向こうからは話しかけてこないことが多いから」。私の話を彼女はうなずきながら聞いていました。そして一言。「先生は日本人じゃあないみたい!」
 何か変なほめられ方でしたが、「私は民族音楽を研究しているから、世界中の人と話したいのよ」と私は言いました。
 彼女が感じたことは、よく言えば日本人の控え目であるということでしょうが、一種の閉鎖社会の現れのような気もします。小さな地域社会で起こっているこのようなことは、世界の中の日本人社会の中でも起こっています。海外の日本人たちについてよく言われることですが、パーティーで日本人だけで集まっていて、いろいろな国の人たちに話し掛けに行く人がほとんどいない、と言うことと似ているなとも思いました。国際化の波はこれからますます強まることでしょう。この急速な変化の中で、日本人的謙虚さの受け身だけでは通用しない時代がもう来ています。アジアの留学生の何気ない言葉は私にいろいろなことを考えさせました。

10月18日 ペンダント

 10月は、大学3年生にとって最も重要な教育実習の季節です。実習期間も3週間と長いので、学生たちはみな緊張して実習校に出かけてゆきます。  この時期、私たちも、学生がお世話になっている実習校へ、ご挨拶に出かけます。私は近くの小猿屋(こざるや)小学校に出かけました。小さい規模の小学校で、毎年低学年が全員一緒に妙高の自然の家に合宿に出かけるのだそうですが、少ない人数だからこそできる素晴らしい試みです。「でも今年は台風に遭ってしまいましてね。」校長先生が残念そうにおっしゃいました。
 学生の最後の授業を参観しに2年生の教室に行ってみますと、教室の中には楽しい物がいろいろと並べられていました。窓ぎわには掘ったばかりらしいサツマイモが、そして後ろには実に素晴らしい作品が並んでいました。それは、鮮やかなビーズや木の実、そして色とりどりのボタンやおはじきを思い思いの形の紙粘土に嵌(は)めて作った写真立てでした。白い紙粘土の上の飾りには、家から持ってきたのでしょうか、ありとあらゆる雑多な小物が使われています。たとえば猫の顔を象(かたど)った作品の髭はヘアピンで、これがなかなかユーモラスな傑作なのです。その発想の豊かさに、私は授業中と言うことも忘れてすっかり見入ってしまいました。近くにいらした担任の先生が「台風で外に出られなかったので、作ったんですよ。」とそっと教えてくださいました。
 教室の隅にも紙粘土と木の実やビーズを散りばめた小さなペンダントがありました。「粘土が余ったものですから」。先生がまたおっしゃいました。20人ほどの子どもたちがそれぞれに工夫した一つ一つがまったく異なった模様のペンダントでした。ペンダントの素敵なセンスに感激して、「文化祭でバザールでもするときは呼んでくださいね。すぐ飛んで来ますから」と、私は担任の先生にお願いしたのです。
 帰りがけ出口まで送ってくださった校長先生が、廊下に貼った子どもたち一人一人全員の写真の表を指差して、「これでみんなの顔と名前を覚えるんですよ。」と嬉しそうにおっしゃったのが実に印象的で、受験やコンクール中心の学校教育で久しく忘れられて来た「ほのぼのとした心の温かさと豊かさ」を学んだ一日でした。
 数日後、大学でこの小猿屋小学校で実習していた学生に会いました。「先生!会えて良かった。これ小学校から預かってきたんです。」彼女はそう言って小さな包みを私に渡しました。早速開けて見ると、驚いたことに、和紙に包まれた小箱の中には紙粘土で作ったあの子どもたちの作ったペンダントが入っていたのです。「大学の先生にあげてもいい人……って聞いたら、一人が手を挙げたんですよ。」彼女がそう言いました。その子にとっては、たった一つしかない大切な作品だったことでしょう。ペンダントを胸にかけると、その小学生の思いが伝わってくるように感じました。

10月25日 赤トンボ  

 この時期になるといつも思い出すことがあります。それは、上越で初めて出会った赤とんぼの大群です。子どもの頃に見た赤トンボの記憶は、もっと小さく細いトンボでしたが、ここで出会ったトンボたちは一回りも大きく、どのトンボもどのトンボも2匹ずつセットになって飛び交っていました。ほとんど見かけることもなく忘れて過ごしてきた赤トンボでしたが、昭和59年の秋には、実に多くの2匹セットのトンボが空を埋めていましたっけ。たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんに、「赤トンボがずいぶん多いんですねえ」と感想をもらしたところ、「うちの祖母(ばあ)ちゃんがよく言ってましたけど、トンボの多い年は大雪になるそうですよ」とのこと。その時は、「トンボの数でその年の雪の降り具合が当たるのか……」と感心したのを覚えています。確かに、その年、昭和59年の冬は大変な豪雪でした。
 ところで越後は、豊かな自然に恵まれているためか、トンボにかぎらず虫の数が実に多い土地のような気がします。特に高速道路では、中央道、東名道、名神高速道路を走っても、こんなに多くの虫に会いません。北陸道から関越道を走る時のフロントガラスの汚れ具合が、他の高速道路と全然違うのです。関越道ほどフロントガラスに虫が当たる高速道路はないのではないかしら。一度走ると、フロントガラスは虫がぶつかった白いアトだらけになりますから。走る度に、「あーあ、またたくさん殺生してしまったなあ……」と、いつも気になります。
 でも、関越道の全面開通の時期とともに、不思議に赤トンボの数も急に少なくなったような気がします。そして久しく雪のない上越が続いています。
 ここ数日めっきり寒くなりました。大学の周囲にはいつものようにコスモスが咲き始めました。色とりどりの花の趣に、間近な冬の訪れに緊張しつつも、冬までまだもう少しと、しばしほっとする季節です。

11月1日 越後獅子

 ある雑誌で、音と関係のある玩具や人形について連載をしているのですが、新年号の季節にあった話題ということで、江戸の家々の門口を訪れて新年を寿(ことほ)いだ「越後獅子」の人形を探しに直江津駅近くの土産物店を覗いてみました。幸い、一軒の店に古びた様子の「越後獅子」の人形がありました。お店の方(かた)にお願いしますと、これ一つしかないがこんなに古くなってしまっているので売り物にはできないとのこと。そこを無理を申し上げて特別にお譲りいただきました。人形を解説した文面も入れて下さいましたが、ここには、美空ひばりの「角兵衛獅子の歌」が書かれていました。この人形は歌が流行った頃に作られたようですが、当時は越後獅子と言えば誰もが一応知っていたことでしょう。
 越後獅子は、角兵衛獅子と呼ばれ、かつては、稲の刈り取りが一段落した冬から新年にかけて、現在の月潟村あたりから頭に小さな獅子頭を載せた衣装の子どもたちが遠い道程を江戸にまで赴いて、いろいろな芸能を披露し、江戸の初春(はつはる)の風物詩となっていました。子ども獅子のけなげさと、芸能としての面白さ、それに福を呼ぶ獅子の縁起の良さが加わって、角兵衛獅子の伝統を新しい考え方で受け継ごうと割烹旅館を営む土田さんが努力しておられ、祭りの時にその芸能を披露していますが、このことは県外の人々には案外知られていません。残念なことは、獅子が曲芸をする時の音楽の伝承がすでに絶え、古いカセットテープの音で演じていることです。しかし、音楽面での伝承の危うさを感ずるのは柏崎の綾子舞についても同じで、これらの芸能が全国的に認知されてきただけに、動きの伝承だけでなく、何かと音楽も生き返らせる方法はないものかと、古びてすでに再生産されることもないであろう越後獅子の人形を見ながらつくづく思いました。

11月1日 のろま人形

 佐渡の「のろま人形」は全国的に知られたおおらかで滑稽な人形の寸劇です。だいぶ前に直江津の土産物店でこの「のろま人形」の人形の頭(かしら)4体、つまり、頭(あたま)の部分だけを藁に刺した土産物を買いました。その時、店に並んでいた「のろま人形」の頭の色は、緑や黄色の原色に近い派手派手(はでばで)しい色合いで、買うのを躊躇したのですが、店を見回しますと、陰(かげ)の方に、少し古びていましたが落ち着いた着色のもう一つの「のろま人形」があるではありませんか。お店の方(かた)に、「これをください」と申しますと、「お客さん、これは売れないんですよ。もう古くなっちゃっているしね。いま作っているのは皆こっちの色になっちゃってね。」と派手な方をさします。一度欲しくなるとどうしても欲しくなるというわがままな私の癖が、この時またもや出てきました。「古くてもいいんですけど。この色の方が落ち着いていますし、ずっと素敵だし。」と言う私の言葉に、お店の方もさかんに頷かれていました。そしてご親切にも、そのもう一つの「のろま人形」を何と五百円で譲って下さったのです。私の大事なものがこれでまた増えました。
 さて、先日再び駅近くの土産物店を尋ねました。今度は「角兵衛獅子」の土産物を探すためです。一軒の店に「越後獅子」と名前をつけた人形が売られていました。ところがこの人形も、古いし、これ一つしかないので売り物ではないとのこと。そこを無理を言ってやはり特別にお譲りいただきました。その時店の棚を見ると、たくさんの「のろま人形」の頭(かしら)が並んでいます。その人形も皆、あの時買わせて頂いた落ち着いた色合いに変わっているではありませんか!ひょっとしたら、あの時物申したのが良かったのかしら?と自己満足をし、きっと今度は越後獅子が店に並ぶかもしれないと思いましたが、そうはうまくいかないでしょうか?

11月8日 情報化社会の落とし穴

 学会のために数日家を空けました。留守中、私はよく電話をFAXに切替えておきます。情報化社会の目覚しい発展のおかげで、私達の日常生活は本当に便利になりました。伝言したい内容を紙に書いて電話回線に接続したこの機械に入れるだけで、相手にそのままメモが届くのですから。
 数日後、自宅にもどると何件か連絡が入っていました。でもその中で1枚のFAXの手書文字がまず目に飛び込んできました。「上記のように示談になりましたので5万4千468円を○○銀行○○支社当座○○番に振り込みお願いします。」
 そのFAXにはこのように書かれていたのです。驚いて手書き文字の上に書かれた表を見ますと、「示談書」の3文字が目に入り、その下に「事故発生時」やら「事故状況」などの項目があるのです。宛名はありませんが、送信者は、ある保険会社の上越支社の社員からでしたので、このFAXが保険会社の社員から自動車事故を起こした人への示談金の請求を知らせたものだということが分かりました。
 言うまでもなく、私の起こした事故ではありません。番号違いでまったく関係のない他人の家に示談書が送られてきたと言うわけです。こういう書類を貰うのは、驚きを通り越して実に嫌な気分がします。このように個人情報の入った書類をFAXで送ること自体、非常識だと思うのです。おまけに、この書類が無事についたかどうかも調べた形跡がありません。デパートの顧客リストや学会の名簿に登録された個人情報が流出して使われる問題は、この頃のニュースで良く取り上げられ、社会問題になっています。個人の情報が外に間違って流れることによって赤の他人に届けられ、逆に利用されることも聞いています。事故を起こして示談になったことなど、本人にとっては知られたくないことでしょう。個人情報を多く抱える保険会社は、このような情報化社会の危険性を社員にしっかりと教育するべきではないでしょうか?

11月15日 素晴らしい聴衆たち

 新発田出身で長年イタリーのミラノで活躍されて来られた声楽家の鹿島恵子さんとイタリーの古い楽器との演奏会が、この秋の県民文化週間で企画されました。楽器のアンサンブルは、バロック時代のヴァイオリンやヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてマンドリンのような形のリュート、ピアノの前身のチェンバロ、篠笛で構成されていました。この演奏会がいつもの演奏会と違うのは、どの楽器の音量も決して大きくなく、また、鹿島さんが歌う古いイタリーの歌も、オペラのように大きく歌い上げずに、こじんまりとした場所で楽しむ種類の歌だという点でした。ですから、果たして集まった人々がどのような反応をするだろうかが気掛かりでした。
 村松町のさくらんど会館で行われた「宮廷サロン音楽とヴィヴァルディの響き」と題されたこの音楽会には、600人近い聴衆が訪れました。この会場は体育館のような内部構造の多目的ホールですから、このような室内楽の演奏会のためには、ステージ全体を覆うような反響板を取り付けるとか、客席の中にステージを持ち込むなどの大々的な工夫をしないかぎり、良い響きを得ることはまず困難です。当日は、解説の声が小さかったりでハプニングも起こりましたが、その晩の素晴らしい聴衆たちのお陰で、会場は静まり返り、繊細な楽器の音色は後ろの席にまでしっかりと聞こえてきました。
 聴衆の方々は決していつも音楽会を聞き慣れている人々ではありません。例えば、一曲の楽章と楽章との合間で拍手をしてしまうこともありましたが、そんなことは今回のような素朴な演奏会では問題ではありません。皆が真剣に音を聞こうとする熱気が、会場全体を支配しているのです。子どもたちも大勢いるはずですのに、ぐずる声もなく、だれもが真剣に聞き入っているようでした。
 このような静かな響きを楽しむ演奏会の機会はなかなか多くありません。でも、今回の企画をお手伝いして、素晴らしい聴衆のお陰で素朴な音色を聞く会の可能性を信ずることができました。

11月21日 雪おろし

 12月も近くなり、冬の到来を知らせる雷が鳴り始めました。この季節になるといつも思い出すのが、越後で初めて雷を聞いた時のことです。
 上越に赴任した年の11月の終わり、午前1時をすでに回った深夜のことです。地響きのように、地面がうなっているような音を聞きました。地震の音かしらとも思い、しばらく様子を見ていましたが、部屋が揺れる様子もなく、ほっとしてその晩は休みました。翌朝、高田で買い物をした時に、店員の方(かた)から「お客さん、夕べは雪おろしが鳴ったから、雪も近いですね。」と言われました。思わず「雪おろし?」と、彼女の言葉を繰り返しますと、彼女は、「夕べ雷が鳴ったでしょう」とニコニコして言います。「そうかあの音は雷だったのか。」と、私はこの名前にとても感動しました。それは、この雷の音が、歌舞伎で雪の情景を表す大太鼓の音色にとても良く似ていたからです。そして、歌舞伎でも「雪おろし」の名前を使っているのです。
 歌舞伎では、直径60センチ余りの大太鼓を色々なバチで打って自然の音を表します。川の流れる音、雨や風の音、波の音。そして中でも有名な音が「雪音(ゆきおと)」です。「雪おろし」は「雪音」の別名として、あるいは雪が屋根からまとまって落ちる時の音について呼ばれる名前ですが、布やバックスキンでくるんだバチで太鼓の革を打ちます。すると、木や竹のばちのように、はっきりした音ではなく、空気全体が低く響くような不思議な音になります。雪の中を人が歩く時や、シンシンと雪が降り続く場面には、必ずこの雪音が使われて来ました。この音は、実際にない音を日本人の知恵で考えた音だと言われてきたのですが、古い文献には「北国の冬の時期に、あたりにズンズンと響く音を歌舞伎に取り入れた」と書かれているものもあります。
 上越で雷を聞いた私は、これが歌舞伎の「雪おろし」のオリジナルだと確信したのです。

11月28日 雨

 この間(あいだ)、埼玉から友人が大学を訪ねて来る日のことです。北陸道を通って昼前には着く予定なのに、午後1時を回っても連絡がありません。この日は朝から大雨でしたので「事故でも起こさなければよいが」と心配していたところに伝言が入りました。高速道路で事故を起こしたとの連絡。胸もつぶれる思いでしたが、電話をかけてきたのが本人自身で、普通の話し方だったと聞き、命に別状はなかったようです。待つこと1時間、やっと本人から連絡が入りました。轍(わだち)の水溜りにタイヤを取られ、スリップしたのだそうです。車は後部をガードレールにこすって止まったのですが、このような事故は一つ間違えば命取りなのに、本人は何ともなかったとのこと。やれやれと胸をなでおろしました。それでも、車をレッカー車で移動したほどでしたから、怪我もなく車の後部が壊れただけとは、まさに奇跡としか言いようがありません。本人は、今話題になっているインドのサイババの奇跡に凝っていて、自分にもサイババの奇跡が起こり始めたんだと感動していました。
 10月半ばから12月にかけての新潟は、いつも雨の多い季節になります。雨の降り方も、真冬の雪のように、大粒の雨が円錐の底辺に向かって急降下するように降り落ちるのです。このようなダイナミックな雨の降り方を経験したことのない私は、このことだけにも感激しました。そして丁度この時期から、関越トンネルのこちら側と向こう側の天候は逆になるケースも多いことを知りました。
 大雨の中を、トンネルを越えると反対側では美しい夕日。雨道を、気を遣って運転していただけにほっとすることもしばしばです。上越を出る時は曇り空でも、長岡から越後河口あたりを過ぎると、大雨に変わります。このあたりは最も豪雪地帯ですが、雪の多さと雨との間に、何か関係があるのでしょうか?
 秋も終わりに近づくと、4輪駆動車にシャベルと長靴を積み込んで、こんなことを考えながら長いトンネルを越えるのです。

12月6日 芸術と文化行政

 しばらく前の上越市議会で、上越文化会館の収支報告について、会館が招聘するさまざまなコンサートで大きく赤字を出したことが糾弾されたと聞きました。正直な感想として「日本の行政としては良くあることだなあ」とさほど驚きもしませんでした。しかし、県や市のレヴェルで芸術活動をバックアップしようとする場合は、これから育つ未知の能力を啓蒙し、刺激するための材料を提供する投資であり、そしてその結果が出るのは10年、いや20年先になることも普通で、ただちに見返りが来ることなど有り得ません。公(おおやけ)が文化行政で儲けようと考えることこそ根本的に考え方が違うのではないでしょうか?文化の振興は基本的にお金が掛かるものなのです。
 私は、音楽の研究に携わっていて思うのですが、音楽がなくても日常生活に支障はきたさないし、御飯を食べるにも困らない。しかし逆に、今のユーゴスラビアのように、厳しい戦火の中で食べ物に困っても、音楽は決してなくならないのです。これが音楽が持つ力のすごさです。ある種の宗教にも似て、実用的に役立たないものこそ人間の最も根本的な存在の部分と関わるとも言えます。
 日本の学問と欧米の学問との大きな違いは、基礎研究に出す予算額の違いと聞きます。これから先どのように発展するか分からない未開拓分野にも、欧米諸国は大きなお金をかけて若い能力の可能性を延ばそうとするのです。ところが日本の場合は、実績がないとお金を出さない、ある程度将来の結果が見えないと予算を使わないのです。そして、このことが日本の科学研究発展の伸び悩みを生み、頭脳流出を招く原因になってきました。芸術文化の振興についても同じことが言えるでしょう。文化会館のこれまでの企画方針が、既製の音楽会を並べるだけで自主性がなかったことは基本的に問題がありますが、これも、専門職を作らない行政側の姿勢の結果です。行政側は文化を育てることに伴うリスクに対してもっとおおらかになるべきではないでしょうか?

12月13日 一流について

 10月に村松町でコンサートを行った新発田出身の声楽家、鹿島(かしま)恵子さんからお電話を頂きました。鹿島さんは、お客さんがあんなに静かに聞いてくれたことにとても喜んでおり、私にも会についての感想を聞きたいと言いました。
 私は、多目的な会場の広さと音響の状態が、室内楽的なバロックの音楽に合わなかったであろうことと、低い声の部分が会場の音響の悪さで埋もれて遠くまで聞こえず残念だったことを言いました。すると鹿島さんは、「茂手木さんね、そこが私の悩みなの」とおっしゃるのです。そして、「低い声が良く響くようになれば、私ももっと伸びるんだけど」と信じられない言葉が返ってきました。そして、「なかなかみんな本当のことを言ってくれないんだけど、茂手木さんだから言ってくれて有り難い」といわれ、私は当惑してしまいました。彼女は決して会場のせいにしなかったのです。鹿島さんと言えば、草津の音楽祭に何度も招かれて出演し、NHKFMでもコンサートや今や大御所の佐藤しのぶさんとも一緒にメサイヤのソリストを務めている方なのですから。まさかこんな言葉を聞くとは思っていなかったのです。
 鹿島さんは、自分が学んで来たイタリアの歌のみならず、世界のいろいろな歌にも興味を持って新たに学ぼうとしています。たとえば、日本の古い歌で今も宮中で歌われている催馬楽(さいばら)の話を私がしますと、是非それを勉強したいとおっしゃいます。このような彼女の言葉を聞いて、本当の一流の人はこのような方なのだとつくづく思いました。今、ある私立大学で教鞭を取る鹿島さんは、その説得力のある教え方と実力ある技術で、学生さんたちに大変な人気だそうです。
 今私は、日本の古い歌と楽器のコンサートを鹿島さんとすることを話し合っています。今から実現する日が楽しみでなりません。

12月20日 タクシー

 姫路の学会のシンポジウムがあり、出掛けてきました。駅近くのホテルを取ったのですが、いつもドジな私は出口を間違えて反対側に出てしまいました。上越を出かける時に忙しかったので準備不足もあり、いろいろと本や書類を詰めて来た鞄がやけに重かったことと、もう午前0時近くになろうとしていたので、もう一度反対側に回ることが億劫(おっくう)になり、並んでいたタクシーに乗り込みました。「近くてすみませんが、荷物が重いので」といって乗り込んだ私に、運転手が説教を始めました。「あんたね、駅にはだいたい出口がいくつもあってね。そこをよう見んといかんで。わしだから行きよるけど、ほかの車だったら行かへんで」と、河内音頭か浪花節のような「だみ声」の運転手。「やはり近すぎて行ってくれないんですね」と私が言いますと、「そんなんやあらへん。どこの駅にも出口が2つはあると言うてんのや」と運転手。乗っている間中、ずっと小言を言われました。しばらくして車が止まりドアが開きました。黙っている運転手に「ホテルはどこですか?」と聞いたら「目の前や」といって車は走り去りました。私は運転手が何を怒っているのか結局分からないままでした。
 上越に来てはじめての頃、タクシーを降りようとしたところ、運転手の方が降りて来て、私のドアにまで来て開けたのには驚きました。仲町あたりでコンパの帰り、車を呼んだお客さんが店から出て来るまで、道路でずいぶん長い間待ち続ける運転手の姿も良く見ました。雪の時期にはタクシーが買い物までしてくれるのだそうです。特に今回、姫路と比べて上越のタクシー運転手の穏やかさと親切さを改めて感じています。山梨県人の私は、時々、上越人の穏やかさにまどろこしさを感ずることも事実です。そこまで丁寧でなくても良いのにと思うこともあります。土地によって人の心の違いが余りにも大きいので驚きます。でもこの地の穏やかさと心優しさは雪国が育んだ日本の伝統の素晴らしさなのでしょう。

12月27日 鐘の音

 今年もあと4日を残すだけになってしまいました。昨年の冷夏に比べて水不足に悩まされた夏も、日本全国に豊作をもたらしたとのこと。そんな一年も、暮れの除夜の鐘の音(ね)とともに終りに向かいます。
 ところで、この大晦日の除夜の鐘は、最も日本的は音色(ねいろ)として知られているものです。なぜ日本的かと言いますと、鐘の音色(ねいろ)の中に様々な高さの音が含まれていることと、一突き(ひとつき)の鐘の音(おと)が延々と続くように作られていることです。
 富山県の高岡市は、鐘作りで有名な町です。鐘の製作工場では、鐘の余韻を豊かにするために、金属の入れ具合に神経を使います。錫を多く混ぜると余韻が長くなるそうですが、錫が多すぎると今度は鐘が割れやすくなるのでなかなか大変なようです。西洋の教会の鐘は、10以上も組み合わせて、音の高さを変えて何度も打ちますので、余韻はそんなに長くないのです。
 江戸時代の狂言に、主人に頼まれてお金を調達に行く太郎冠者(かじゃ)が、マネーの金とお寺の鐘とを聞き間違えて、関東中の寺を尋ねて鐘の音色を聞き比べて帰り、主人にこっぴどく叱られるという話があります。このときの太郎冠者のこだわりに、余韻の長い鐘の音色が良いとする日本人庶民の好みが良く反映されています。
 また除夜の鐘には、様々な音の高さが含まれていますが、日本の音楽でも、いろいろな音の高さが混ざり合った音色が良いとされ、この傾向も日本人の感性の特徴です。この傾向は、虫の声やせせらぎの音、そして雨のシトシト降る音にも情緒を感ずることと共通の感性と言えましょう。ですから、琵琶や三味線、そして箏(こと)のように、雑音が混ざるような楽器が作られてきましたし、演歌歌手のハスキーな声も良く受入れられるのです。
 ベートーヴェンの第九を聞いた後、除夜の鐘でほっとするのは、この日本人の感性に戻るからなのでしょう。

   
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