特色教育部会:主題 新時代における私学の多様化

演題 多様な思考を育てるために −日本の伝統的な音具を用いた試み−
講演者 上越教育大学教授 茂手木潔子(音楽学)


1.はじめに
 私が上越に来ましてから20年経ちました。私は現在、日本の音楽を専門に研究しています。もともとは西洋音楽をやっていたのですが、大学時代の恩師、小泉文夫先生が世界の音楽を様々な視点で教えて下さった授業を受けて感動しまして、日本の音楽の勉強を始めたのでした。そして大学院の時、国立劇場の演出室に勤め始め、大学院修了後も6年ほど劇場の舞台の仕事をしておりました。そこで民俗芸能、雅楽など日本のありとあらゆる伝統芸能の舞台公演の演出助手を経験した後に、こちらへ移ってきました。
 現在、大学では、皆様が想像する「いつもの音楽」とかなり違うことを行っています。私自身、もともと西洋の音楽を勉強してきたのですが、その後の様々な音楽体験から、上越ではもっと広い視野で音楽教育を実践することを試みてきました。現在の日本の音楽教育では、西洋音楽が音楽や楽器の基準になっています。日本音楽や日本文化を、この西洋音楽の基準に当てはめていくと、入る場所がないのです。世界には実に様々な価値観を持った音楽が存在しています。国によって文化が異なることと同じく、音楽を通した表現の仕方も実に様々です。大学時代に学んだ世界の音楽の多様な価値を、大学でも学生たちに伝えたいと思っています。


2.多様な価値とは何か:学校教育における音楽を例として
 もちろん音楽以外の文化交流の中でも、物事に対する多様な視点や価値観を育てることは出来ます。
 ちょうど今、ドイツから一人、オランダから一人、留学生が来ているのですが、8月始めに来日してまもなく、彼らが、毎晩変な音がするけれど何の音かとたずねてきました。よく話しを聞いてみると、実は蝉の声だったのです。この蝉の声については、欧米の留学生や研究者が来日するといつも質問されることでしたから、そのときも驚かなかったのですが、ヨーロッパでは蝉は鳴かないのです。蝉はいるらしいのですが、ほとんど鳴き声を聞いたことがありません。
 このように、日常聞こえるものが異なっていたり、来日して魚焼きの網を見て「これは何に使うのか」と聞いてきたり。彼らの国にはない形の異なるたくさんの小さな器を見て疑問に思ったり。こういった文化交流でもいろいろな価値の訓練は可能です。お料理についても、着ているものについても、どういうものを信仰しているかについても・・・。
 私自身は音楽を専門としていますので、音楽を通して多様な価値を学生たちに知ってほしいと思っています。たとえば音楽の条件として、音楽とは、メロディー・リズム・ハーモニーからつくられるものであるといわれます。楽音とは、雑音の入っていない音をいうのです。しかしながら、これは私たちが古来から受け継いできた音楽の条件とは異なるのです。

 では、ここに持参しましたアフリカの親指ピアノ、サンサとも呼びますが、この楽器の音を聞いていただきます。私にこの楽器を見つけてきてくださった方が、「変なもの見つけたのだけど楽器だろうか」とおっしゃいました。あっちこっちに瓶のふたが付いているのですね。では、鳴らすとどんな音がするか[サンサを演奏]。これは、楽器じゃないのか?楽器はメロディーがでるものである。ここには楽音がない。でもこれはアフリカ人にとって重要な楽器で、なぜ瓶のふたなどをつけるのかというと、「これをつけるほうが、音色が豊かになる」というのです。
 このサンサのように、世界の楽器の中には雑音を出すものがいっぱいある。日本の楽器にもこういうものが多い。ドレミが出ないと楽器じゃないとは言えないのです。調律がきちっと出来ているとか、楽器からはメロディーが生まれてくるはずだとか、ハーモニーが作れる、正確にリズムが打てるという条件をつけると、日本の音楽はどうか。日本の楽器はどうか。日本の音楽は楽譜がない。ドレミになっていない。[竹製の篠笛を演奏]日本の横笛は、こういう音階になっています。これはドレミではないのです。しかし、このような音階だから祭囃子になる。ところがこの楽器はヨーロッパにおける音楽の条件からすると、言い換えれば、西洋音楽の考え方からすると、狂っていることになる。ですから日本では、昭和40年代から、西洋音楽の影響で、ドレミの出る笛が作られました。[昭和40年代に改良された篠笛を演奏]こちらですときれいなドレミになるんですね。日本の楽器にはドレミがない。でも、ドレミがないのは日本の楽器だけではない。インドネシアの楽器もドレミではできていないのです。ここにバリ島で買った鉄琴型のガムランのおもちゃを持ってきました。こういう鉄琴があると、ふつうはドレミになっていると思いますが、音階がドレミではありません。[演奏]こういう音階だから音楽もインドネシア風になります。1オクターブを均等に 7分割してしまうからドレミにならないのです。音階といっても、このように、様々な音律の作り方があるのです。
 また、日本のハーモニーは、こういうハーモニーです。[日本の古い鈴を演奏]こういう感じのハーモニーで、様々な音高が同時に鳴り響いて出来る「音色ハーモニー」なのです。楽器も声も、とにかく音色にこだわる。そしてリズムより余韻を大事にする。仏壇の?(きん)や、お寺の鐘を思い浮かべてください。一回打つと延々と響きが続く。
 このように、日本音楽やインドネシア音楽の考え方というものを考えていくと、音楽とは何かという本質的な疑問が出てきます。また、インドでは楽譜のある音楽は、即興的な音楽より価値が低く見られているし、4拍子3拍子というきちんとした拍子もありません。インドでは、音楽といえども一番大切なことは、最小公倍数と最大公約数の計算がたちどころにできることで、それを意識しながら演奏できないといけないのです。拍子のまとまりについては、世界共通で8で安定するという原理もあるようですが、インド音楽でも8拍を基準に音楽が構成されます。たとえば、シタールという弦楽器があります。シタールは、タブラ・バヤという2つ一組の太鼓と一緒に合奏されますが、タブラ・バヤが8拍を5拍ずつのまとまりで組んでいく、そして、シタールは3拍を一まとまりとして旋律を構成して行く。この両方が合奏すると、3と5と8の最小公倍数のところで2人の演奏者とフレーズの区切りが一致する。そして、一致するまでの緊張感の持続が音楽を説得力のあるものにするのです。このようにして即興演奏がされて行きます。
 イスラムでは、ドレミの音の間にも音がある。ドと♯ドの間にさらに音があるのです。その微妙な音の高さを歌い分けられないといけない。そして、音楽の試験では、細かく揺らして声を出す技法もあり、音を揺らして出さないと音楽大学の声楽の試験に受からない。ですから、西洋音楽の基準で、他の国の音楽をはかってしまうと、どの音楽も音がはずれた音楽、リズムのない音楽、雑音の音楽、ハーモニーのない音楽というふうなことになってしまう。しかし、そうではない。音楽といっても、世の中にはいろいろある。楽器についても、音を出すものであれば何でも楽器になる可能性があるということを教えることによって、いろいろ考え出す訓練ができると考えています。どうやって楽器を演奏するのか、旋律が循環するのか行きっぱなしなのか、リズムの中に強弱アクセントがあるのか、テンポが一定しているのか、雑音が多いほうがいいか無いほうがいいか。歌い方一つとってもいろいろある。
 オランダのアムステルダム大学から来ている留学生は、仏教音楽を勉強したい、声明を歌いたいということで来ているのですが、実際に声明を習い始めたときに、彼は、「これまで合唱の勉強をいろいろアムステルダム大学でしてきたが、声明ではこれまで全部やっちゃいけないことばっかりをする」と言うんです。今、天台宗の声明を習っているのですが、声明にも音階があるのですが、音と音との間を区切って歌ってはいけないのです。全部アナログ的にくっつけて歌わないといい声明にならない。西洋音楽の授業でこれをやったら成績が悪くなる。このように、欧米音楽の基準と日本の基準は全く反対なのです。
 そうすると日本音楽やほかの音楽をやれば、今まで音楽の成績が悪かった子供は点が良くなる。ハーモニーが合わなくてもいろいろな音色が出せれば点が良くなる。日本音楽をやることで、これまで音楽嫌いだった人も一緒に、もっと別の音楽の世界を楽しむことができるのです。

3.日本音楽の融通性と個によって異なる表現
 とってもおもしろいのは日本音楽の融通性です。これからビデオをお見せします。 これは歌舞伎の一場面ですが、歌舞伎音楽には、オーケストラの指揮者ような存在がありません。VTRは、坂東玉三郎演ずる藤娘です。[VTR:藤娘] 藤娘が、衣装を変えるために舞台の後ろに入っていつ出てくるか分からない。その間、三味線は演奏を続けなくてはいけないのです。リーダーの三味線奏者が、玉三郎がいつ出てくるか様子を見ながら演奏を続けて待っているのです。歌舞伎では、演奏の代表者(タテ)が踊り手の様子を見ながらどこで演奏を止めるかを決めているのです。
 ここで、一つ私自身のおもしろい体験をお話しします。以前に浅草公会堂で、舞踊の《蝶の道行》という作品の上演があり、胡弓という楽器の演奏を急に頼まれました。そのとき、私は楽譜を見ながら胡弓を弾いていたのですが、終わりのほうの場面で踊り手が蝶々の姿でぐるぐる回って倒れるところまで胡弓を弾くのですが、その日は突然早く倒れてしまったのです。他の三味線の人はすぐに合わせて止めたのに、私は楽譜で覚えているのですぐに止められなくて困りました。でも、三味線の人たちは、こういう状況に臨機応変に対応することに慣れているので、終演後、「今日はいやにあのチョウチョウ早く死んじゃったねえ」と言ったのです。こういう状況は、私のように、ただただ楽譜で演奏していると対応しきれなくなる。
 今の歌舞伎舞踊にもありますように、舞踊家(立方)ごとに、全部寸法といいますか、踊りの時間が違うのです。音楽について言えば、演奏者ごとに発声法も楽器も違います。流派や様式はその結果生まれてくるのです。本質的な部分は変わらないが、枝葉が変わってくる。地域限定商品がいっぱい出来るのも日本の特徴かもしれません。そして、この多様性をよしとする考え方はジャンルをいろいろ作り出して、それが現代では商品をたくさん生み出すことになる。では、音楽において様々というのはどういうことか。楽器の素材がさまざま。演奏の仕方もいろいろ。庶民の音楽もさまざま。庶民の楽器もさまざま。声も声質もさまざま。ふつうの合唱を練習するときは、まず発声法を勉強して同じ声になるように練習します。しかし、日本の声はみんなが違う方がよい。
 人形浄瑠璃という私が専門にしている分野があります。登場する歌い手ごとにぜんぜん声質が違います。オペラでは最初から最後まで同じ人物が演じるのが当たり前なのに、人形芝居の音楽、文楽では場面ごとに違う人が出てきて同じ主人公の声を違う声で歌うことが良いとされる。違う人が同じ役割をどう語るのか、どう歌うかを聞いて楽しむのです。仏教音楽で、お坊さんが同じ声で歌ったら変なのと同じようにです。以前、東京音楽大学に勤めていたとき、学生たちと一緒に曹洞宗のお寺、総持寺に座禅に行きました。そこで、学生たちが声をそろえて、「般若はらみった・・・」と歌ったら、お坊さんから「声をそろえて歌うことだけはやめて欲しい。一人ずつ違った声を出して欲しい」と言われました。このように、さまざまなものが集まって総合的に非常に豊かな音色の世界を作り上げるのが日本の音楽文化なのです。
 次に、みんなが別々のことを覚えているという例です[VTR:唱歌(しょうが)]。さっきの《藤娘》の一部の音楽と同じですが、それぞれの楽器がそれぞれのリズムをどのように覚えているのか再現しました。日本音楽では楽器の旋律を覚えるためにこのように演奏者はそれぞれ声を出してカタカナで覚えているのです。口三味線とも言う方法です。そして、この声で覚えたものを実際の楽器で演奏すると、どうなるかと申しますと、このようになります。[VTR:唱歌と同じ部分の楽器演奏]
 さて次の例は、一人ずつ唄が違うことの例です。これは私が新潟県で行なっている研究の例です。[VTR:酒屋唄] 
 蔵では素晴らしいことに、蔵人がみな自分の歌を持っています。次の場面は、力を合わせて米を洗う場面ですが[VTR:米とぎ唄]、米を洗うには音程など関係ない、リズムが合っていればよいのです。それに、酒屋唄では一人ずつの声が違うほうが良い。監督者が声で誰が仕事をしているのか聞き分けることが出来るからです。そして、いつまでこうやって研ぐのかは、歌詞の中にタバコとかキセルとかが出てくると終わる。これも全部即興で動いているので、音頭取りの動きに敏感に対応できることが大事になってくる。日本の音楽はまず楽譜ありきではない、まず音楽が先なのです。音楽を体得する過程で、常に変化に対応できるような力を育てる訓練がなされます。歌舞伎の音楽や酒屋唄から、一人一人が役割を果たして、役割が集合して合同で何かが出来るほうが重要だったことがわかります。みんながそろって同じことをやることは重要ではなかったのです。このVTRに登場された酒屋唄の方々、杜氏さんたち5〜60人と10年ほど唄の継承活動をしています。
 去年はたまたま、文科省の関係で半年ほどドイツに滞在していました。そこで、酒屋唄をドイツ人に聞かせて、ビールの歌と交流したいと考えて、杜氏さんたちを10人ほどドイツに招きました。ところが、ドイツにはビールの歌がないのです。昔はあったのかもしれませんが今は残っていない。このように、仕事をしながら歌を歌うのも日本文化の特徴なのです。日本人がカラオケが好きなのは、私たちがいっぱい歌を持っていた民族だから。日本人は歌が好きで楽しく歌ってすごしてきたはずなのに、いまは、楽譜が読めないと音楽ができない、ピッチが合わないとだめと言われて自由に歌えなくなって、自信を失ってきている。酒屋唄の杜氏さんたちも、自分たちが唄がうまいと思っていなかった。でも、この唄は、あなたたちしか歌えない唄なのだから、あなたたちが本物なんじゃないですかと説明したら、自分たちが本物なのだと思って下さって、今ではあちらこちらで歌っているようです。
 ではここで、さまざまな音が集まって出来ている音楽を紹介します[CD:茂手木著 音楽之友社刊「おもちゃが奏でる日本の音」から]。
 この音は鳥の声です。日本にある鶯笛など、鳥の笛だけを集めて演奏したCDです。このCDは、日本の音文化をあつめて出版した拙著の中にあるCDです。集まった鳥笛を全部集めて、作曲家にアレンジしてもらって演奏会をして作ったものなのですが、そこで気が付いたことは西洋音楽のような音楽を創ろうとするとすごく大変だということでした。一つの楽器が一つの音しか出しませんから、メロディーを作ろうとする一人の演奏家が十数個の笛を演奏しなくてはいけない。それで、メロディーで音楽を作るより、音色で音楽を作る方が日本音楽の特徴になるということに気が付きました。一つ一つが全部違うからこそ、集まるとすてきな音色の音楽ができる。これが日本の音楽の世界です。

4.プロセスを大事にした日本音楽の学習
 上越教育大学には小学校の先生や中学校の先生が大学院生として入学していますので、今日本音楽というと、箏・尺八・三味線ということですが、それを離れて、もっと身近なもので、日本の融通性のある音楽を考えられないかと、授業で実験をしています[VTR: 大学院の授業風景]。今日ここに持ってきたような楽器を用意して、楽器を見ながら、いろいろ話をしながらすすめます。彼らは楽器を前にしていろいろ試行錯誤をします。この授業で、私が大事にしていることは、作品を作って演奏することではなく、考える過程です。
 その結果、いくつかの演奏が仕上がりました。興味深かったのは、どのグループも発想が異なったことでした。始めのグループは、日本の楽器を用いて、西洋音楽的に構成するのと日本音楽的に構成するのがどう違うか実験しました。ブラジル人の留学生がいるのでサンバをやってみる。そして、リズムのあるものをやったり、日本的にリズムを明確にしないで音色だけで作っていくようにしたり。このような実験を大学でやっています。

5.まとめ
 日本の音楽にとって大事なことは、さらに申せば、全ての日本の文化にとって大事なことは、様々に工夫ができるということ、一つのものから様々なものを取り出すことができること、多様な考えを身につけることができるということ、さまざまことに臨機応変に対応できる力を育てることです。本来私たちはそういう文化を持っていたはずなのです。そして、そこから日本の技の文化が生まれてきたのです。私たちはゼロから何かを作り出すことに慣れていません。しかし、あるものができあがったときに、それに付加価値をつけて作り出すことに長けていたという特徴を持っています。この特徴が、日本の音楽を体験することで身につくのです。
 五線譜が読めないと音楽ができないとか、発声練習ができないと合唱にならないとか、また、きちっとピッチが合わせられないと合奏にならないとか、そういう風な今までの基準を取りはずして、別の基準で音楽の教育ができないかと考えています。今回の大学院の授業で一番大事にしたのは、作品作りではなく、作っている過程をもっとも重視し、最終的にある程度考えたところを発表できればいいということでした。これまでの日本の音楽教育が、吹奏楽や合唱のコンクールのように、結果を求めすぎたために、授業のプロセスの中で学ぶ意味が分からなくなっている。本来の音楽教育とはそういうものではなく、大事なことは、学習のプロセスの中で音についてどのように考えるかです。音について試行錯誤する中で、思考力が育って、その結果さまざまな対応ができるようになるのです。これまでの音楽教育で忘れられてきた「人にとって音楽とは何か」をもう一度考えるために、本日例に挙げたような観点からの日本音楽の教育は大変有効だと思っています。(了)